「あの、三村くん。甘いものって好き……かな」
ホームルームが終わった。今日は木曜日で部活も無いからあとは帰るだけである。友達との別れの挨拶も済ませ、教室を出ようとした貴幸に加奈子が声を掛けてきた。 「え? 俺? ……そうだな、別に好きでも嫌いでもないけど」 あれから加奈子とは、結構話すようになっていた。挨拶ぐらいは前からしていたが、会話までするようになったのは最近のことだ。話すようになった時期は一月ほど前。つまり荷物運びを代わってやった頃からである。 「じゃあ普通?」 「ん、まあ」 加奈子は両手を後ろにやっている。上目遣い気味に貴幸を見るその眼差しは緊張を孕んでいた。 (何だろ) 思ったとき、加奈子は両手を貴幸の前に差し出した。 「そ、それじゃあ。もし良かったら……これ、食べて」 手にはラッピングされた小さな袋が乗っている。 「昨日作ったクッキーなの……」 「へえ。ありがとな」 貴幸は特に深く考えずあっさり受け取った。 「……うん」 受け取ってもらえて、加奈子は嬉しそうに微笑した。瞳を細めて柔らかく笑む姿は少女的な魅力を持っている。 しかし、いざ手にとってみてから貴幸には当然の疑問が沸いてきていた。 「でも、どうして俺?」 「えっ!」 「渡すなら、家族や友達の方がいいんじゃないのか」 「あ、あの、それは……作りすぎちゃったの。だから」 視線をきょろきょろと巡らせてから加奈子は言った。なるほど、それなら貴幸に渡す理由も納得である。 「俺の分ができるまで作るなんて、結構ドジだな。じゃ、ありがと」 笑いながら貴幸が手を振る。加奈子も微笑んでそれに応えるのだった。 靴を履くため、貰ったクッキーを鞄に入れて玄関を出る。すると校門の方からよく通る声が聞こえてきた。 「――だから今日は急ぐって言ってるだろ。邪魔するなよ」 言葉だけ聞くとやや乱暴だが、実際の口調は結構楽しげである。台詞と発音では随分と印象の違う言葉だった。どうやら友人同士で戯れているらしい。 それを聞き、貴幸はそっと声の主を窺ってみることにした。 (誰だ……?) その理由はずばり、声がやたらと悟志に似ていたからである。と言っても悟志はあんな話し方はしない。だから別人だろう――と、思ったのだが。 「大事な用があるんだって。……何だよ。いいだろ別に。ったく、しつこいんだよ、おまえら」 何人かの友人に囲まれ、苦笑して話しているのは悟志だった。 (えっ、悟志!?) 貴幸は驚いて、思わず飛び出してそれなりの距離から集団を観察した。 「延期? そんなのできるわけないだろ。はいはい、また今度」 やっぱり、話しているのは紛れもなく悟志だ。 どうやら早く帰ろうとしているところで友人たちに捕まって、遊びに誘われているらしい。 端から見た感じだけでは別におかしくも何ともない会話である。高校生の男子が友人と話すときの口調などこんなものだ。しかし、悟志だ。いつもタカちゃあんと言って甘えてくる、あの悟志がこれを言っているのだ。 しかも表情もいつもとは違う。落ち着いた苦笑いを浮かべ、数人の中では随分と大人びて見えた。 (……聞き間違いか? 今のって) 少々大げさながらも貴幸は思った。それほど意外である。 そのとき、悟志と一緒にいる下級生の一人が貴幸に気づき、あっと短く叫んだ。悟志はそんな彼に冷静に突っ込む。 「何だよ。いきなり叫ぶなよ、周りが驚くだろう」 「いやいや、後ろ見ろよ。いるぞ」 「え? いるって誰――……あーっ!」 悟志は今ひとつ興味なさげに振り返ったが、後ろの貴幸に気がつくなり瞳を輝かせた。 「タカちゃん!」 口元は緩み目はきらきら輝き、一気に雰囲気全体が明るく幼くなる。顔の作り自体が変わってしまったのではないかと思うくらいに。 ぶんぶんと思い切り悟志は手を振った。近くにいるというのに。そして締まりのない笑顔を浮かべて貴幸に呼びかける。 「タカちゃあん! こっち、こっち!」 「……そ、そんなに大声出さなくても聞こえるよ」 引きつりそうになりつつ貴幸は返事をした。 仕方がないので彼らに近づいていき、ペコリと軽く場にいる、下級生に挨拶をした。彼らも慌てて深くお辞儀をしてくる。何だか物珍しそうに貴幸を見ながら。 「タカちゃん、今帰りなの? 会うなんて珍しいなあ。いつも全く会わないのにね!」 悟志はすっかりいつも通りだ。バックにチューリップでも咲くような笑みを浮かべ、甘えた口調で話しかけてくる。 「なの?」 「のにね……?」 ひそひそと、悟志の友人たちが語尾を繰り返しているのが聞こえた。彼らは彼らで眉を寄せている。 (さ……さっきのが普段の素なのか、悟志) ただちょっと話し方が違うだけ。言ってしまえばそれだけなのだが、あんな口調の悟志は、ずっと一緒にいて初めてだ。――緊急時を除けば。 動揺しながら貴幸は、ようやく悟志の質問に答えた。 「えーと……いつもは部活があるからな。木曜にも会わない理由は知らないけど」 「あ! 多分、僕がいっつも急いで帰っちゃってるからだ!」 「急いで?」 「だって、タカちゃんと勉強だもん。早く帰って準備しなきゃね!」 にこりと悟志は笑った。 そう。今日は部活が無い曜日、イコール悟志と勉強をする日なのである。 この前キスの練習をする許可を出してしまってから今日までにも、一度勉強会はあった。そして予想通りと言うのか、やはりまた『練習』されてしまっていた。来てから帰るまでに何度も何度も。 「だもん……?」 悟志の言葉を聞き、友人たちは相変わらず顔を強ばらせていた。どうやら彼らからすれば、この瞬間の悟志の口調こそが驚きであるようだ。 貴幸は意味が分からず聞いてみた。 「準備、って。何のだよ」 「えっと……心の?」 自分で言っていても恥ずかしいらしい。悟志は照れ笑いしながら口にした。 「でも、ゆっくり帰ればタカちゃんと会えてたなら損してたよ。これからは急がないで帰ろっと」 「そ、そうか……」 「ね、とりあえずタカちゃん、一緒に帰ろ。僕もタカちゃん家に直行していいよね」 「ああ」 ちらりと悟志の同級生たちに目を向ける。彼らは黙って二人の会話を聞いていた。いや、黙ってというよりも、何も言えないようである。 気になって堪らないことを貴幸は聞いた。 「さっき、おまえが普段より荒い口調なの聞いたんだけど。いつもああなのか?」 「ん? 何それ?」 きょとんとする悟志は、どうも本当に分かっていないようだ。本人的には態度を変えているつもりは無いらしい。 首を捻る悟志に、彼の友人も声を掛けた。 「何かかなり変わったじゃん。タカ……先輩が来たら――」 「『三村先輩』だろ」 一転して冷たく悟志は言い放った。下級生たちはぎこちない口調で、 「……に、にむら先輩?」 と繰り返す。悟志の目つきは鋭いままだ。見ていられず、貴幸は口を挟んだ。 「あ、三村だよ、俺。二年生の三村貴幸。好きなように呼んでくれていいよ。今みたいに、タカ先輩でも構わないし」 そう言ったものの、同級生たちはちらちらと悟志の様子を窺いながら遠慮がちに言った。 「えっと……三村先輩」 貴幸が来た途端に態度を変えた悟志が少し怖いようである。確かに、いつも普通に話す友人がいきなり甘えた口調になれば、別の意味で怖いだろう。 悟志はそんな話をするよりも、早く貴幸と一緒に帰りたいらしかった。ぐいと腕を掴んで軽く引っ張ってくる。 「ね、タカちゃん。そろそろ行こうよ」 「ああ、うん」 二人は悟志の友人たちに、それじゃ、と軽く挨拶して歩き始めた。 何だか今日は、悟志のちょっと意外な一面を見てしまった。 |