「タカちゃんと一緒に帰るの、何年ぶりかなあ! 嬉しい」
悟志は貴幸や友人たちの驚きなど知らずご機嫌である。今にもスキップでもし始めそうだ。 「そのうち登校も一緒にしたいな。そしたら毎日同伴出勤だね」 「意味違うぞ、悟志。っていうかどこでそんな悪い言葉を覚えたんだよ」 「この前、道端でスーツのおじさん達が言ってた」 「そういう会話を真面目に聞いちゃ駄目だ!」 脳天気な悟志の話を聞きながらも、貴幸は頭の中で未だにさっきのことを考えていた。 (知らなかったな。悟志があんな風に話すなんて) だけど、そういえば加奈子も言っていた。以前悟志について話したとき、こんなことを。 ――格好いいし、頭もいいから……。 ――生徒会所属だけあって、キリッとしてるところあるよね。 ――落ち着いた雰囲気の相田くんしか見たことなかったから。 貴幸には先入観があるから、ついついその話に『優しくて甘えんぼで』という前提をつけて聞いてしまっていた。だけど彼女の発言だけから鑑みるならば、周囲からはむしろ冷静で大人っぽいと思われているのかもしれない。 二年前の悟志は、友人といるときでも貴幸といるときでも、ここまで違う態度ではなかった。やはり歳月が彼を変えたのだろうか。 「同じ家に一緒に帰るって、何だかいいよね。仲良しって感じでさ」 「そういうのは彼女にでも言ってやれよ、悟志」 「……うん」 照れたように笑う悟志に自分なりの助言をしてやる貴幸だった。 と、そのとき。後ろからパタパタパタと誰かが駆け寄ってくる音がした。振り向いた先にいたのは、美幸だ。 「お兄ちゃん! 悟志くん!」 「あっ。美幸!」 何とも珍しい日だ。悟志だけではなく、美幸とまで帰りが一緒になるなんて。三人とも方向は同じだけれど、部活やホームルームがあったりするせいで普段は滅多に見かけないのである。今日は貴幸も悟志も学校を出る前に少し話していたものだから、足が遅めの美幸と同時刻になったのだろう。 美幸は二人に追いつくとしばらく荒めに呼吸し、息を整えた。そして顔を上げて嬉しそうに微笑む。 「お兄ちゃんと悟志くんがいるのが見えて、追いかけてきちゃった。二人が一緒に帰ってるなんて珍しいよね」 「ああ。たまたま門のとこで悟志に会ってな」 「ユキちゃんとまで一緒になるなんて、もっと珍しいね」 「そうだね。悟志くん、今日、木曜日だからうちに来るんだよね?」 「うん。お邪魔します」 笑顔で悟志が質問に答えると、美幸は嬉しそうに貴幸の横に並んだ。ふふ、と愛らしい声を立てながら。 「三人で一緒に帰るのなんて何年ぶりかなあ。同じ家に一緒に帰るのって、何だか嬉しいよね」 「ねー」 さっきの悟志と同じような台詞を言った後、二人は顔を見合わせて笑い合う。 どうも彼らは昔から、貴幸と悟志とは別の意味で気が合うのだった。 「あ、そうだ。悟志くん、今日はうちに泊まっていったら? こうして三人で会ったのも何かの縁だよ」 「えっ、いいの?」 「うん! お兄ちゃんの部屋で寝かせてもらいなよ」 「わあ。やったあ!」 口を挟む隙間もなく、悟志と美幸はどんどん話を進めていってしまう。まるで貴幸が断るとは思っていないようである。 「ちょ、ちょっと待てよ! 明日は平日だぞ?」 「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ただ悟志くんの寝る場所がいつもと変わるだけだもの」 「そうそう。明日の朝は起こしてあげるね、タカちゃん」 悟志と同じ部屋で寝るなんてとんでもない――! 貴幸は抗議したのだが、二人ともどこ吹く風である。 あ、と呟き、悟志はふと足を止めた。 「それじゃあ僕、残念だけどこの辺で一旦別れなきゃ。服や歯ブラシ取ってこないといけないもんね。……タカちゃん、次こそ最後まで一緒に帰ろうね!」 「おい、悟志!」 「ばいばーい!」 呼んだのに気づかなかったのか、それとも敢えて聞こえなかったことにしたのか。どちらなのかは知らないが、とにかく悟志は元気に挨拶をして身を翻し、別の道へと走っていった。 こうなってしまえば仕方がない。今日、悟志が貴幸の部屋で寝るのは確定なのだろう。一体どうなることか。 口元を抑え、くすくすと美幸は笑っている。 「相変わらずだよね。悟志くん」 「でもあいつ、クラスの奴と話してるときはもっと……こう、何て言うか違ったぞ」 「え? 知らなかったの? 悟志くん、お兄ちゃんや私と話すときだけああなんだよ。昔の癖が出るのかな」 「へえ……」 同じクラスだけあって美幸は知っていた。普段の悟志を知らぬは貴幸ばかりだったのである。 ……何だか、もやもやした。自分の知らない悟志が、今の彼の大部分を占めているということに。 (そうだ。それに俺、あいつが好きな奴のことも、全然知らない) 美幸と並んで歩き出しつつ、貴幸はそんなことを考えていた。 『練習』に何度も付き合っている貴幸なのに、悟志は恋人について全く教えてくれない。別に話す必要が無いと思っているのだろうか。それとも、もしかして――隠したい相手、だったりして。 つい貴幸は口に出していた。 「な、美幸。おまえってさ、悟志と付き合ってたりする?」 「ええ……!? わ、私!? どうしたのいきなり」 「ん、ちょっとな」 「もう。そんなわけないよ、悟志くんは大事な幼なじみだもん。……ううん、幼なじみっていうよりも、家族みたいな感じかな」 「……そっか」 何だか釈然としない。悟志がどんな子と付き合っていても貴幸には関係ないはずなのに。自分から二年も離れていたのだから、その間に彼に知らない一面ができたっておかしくないのに。 美幸はぴったり貴幸の横を歩いている。 「お兄ちゃんと帰るのも久しぶりだよね」 「ああ、そうだな」 悟志を避け始めた中学の頃から、貴幸は下校のタイミングを少しずらすようになった。急いだり遅らせたり。当然、そうしたら美幸の下校時間ともずれることになったのだ。 そして言わずもがな、貴幸が高校に進学してからは学校が違うから会いようが無かった。 「そういえば、木曜にも全然おまえと会わないな」 いつも美幸は貴幸より後に帰宅してくる。全く同じ道なのに。 美幸は苦笑いした。 「実は時々見かけてる。一年生は三階だからちょっと出るのが遅くなるでしょ。だからお兄ちゃんを見かけるときって、必ず私より前にいるの」 「何だよ。それなら声掛けてくれればいいのに」 しかし彼女は首を振った。 「お兄ちゃん、足が早いんだもの。追いつけないよ。大声でお兄ちゃーんって呼ぶのも恥ずかしいし……」 「へえ? 昔は周りの目なんか気にせずに呼んでたのに」 「もう。そんなの、ずっと昔の話だよ」 「大人になったなー、美幸」 笑いながら貴幸は言った。だけど内心では寂しい。 彼女も悟志も、知らない間に変わっているのだ。貴幸は二年も前から変わらないのに――いや、逆に言えば、貴幸こそが最初に変わったと言えるのかもしれない。 「ふふ。そういえばお兄ちゃんね、実は結構、私のクラスで有名なんだよ」 「俺が? どうして?」 貴幸は自分を指差した。 「あのね、悟志くんがよく話してるから。悟志くんはみんなと友達だから、きっと私のクラスの人は誰でも知ってるよ」 「変なこと言ってるんじゃないだろうな、あいつ」 あの悟志のことだ。タカちゃんはタカちゃんは、と連発しているのではないだろうか。……そういえば悟志の同級生たちは、貴幸の名前の一部を知っていた。 (……されてるみたいだな、連発) 詳しく聞きたいような、聞きたくないような。複雑な気持ちである。 そんなことを話すうちに家についた。 「ただいまー」 「お帰りなさーい」 挨拶すると二階の方から返事が来た。きっと、母は上で家事でもしているのだろう。 貴幸たちの母親は専業主婦だ。だから家にいることが多く、近ごろ悟志が家に来たときにも彼と何度か会っていた。『すっかり格好良くなっちゃって!』と驚く母の言葉は、恐らくお世辞ではなく本心だ。 美幸は貴幸の靴まで綺麗に揃えている。 「最近は悟志くんね、またお兄ちゃんと仲良くなれたって言って、とっても嬉しそうなの」 「ふーん。おまえらってよく話してるのか? 悟志の奴は、美幸と話すのは恥ずかしいって言ってたけど」 「あ……今のは、話してたのが聞こえただけ。私と悟志くんも、最近はあんまり話せてなかったよ。お兄ちゃんと悟志くんが喋らなくなってからは、何となく、気まずくて」 「……そっか」 「また昔みたいに三人で仲良くしたいな。……ねえ、お兄ちゃん。今日は美幸も一緒に勉強していい?」 貴幸は複雑な思いで美幸を見た。 彼女が自分のことを名前で呼ぶのを、久しぶりに聞いた。これは美幸が幼かった頃の癖だ。珍しく三人で歩いたために、昔に戻った気持ちにでもなっているのかもしれない。 そして、美幸と悟志が疎遠になった理由は貴幸によるものだったのである。――申し訳なさで胸がいっぱいになる。 悟志を避け始めてから、貴幸は意識的に彼のことを考えないようにしていた。だから思い至らなかった。美幸と彼までが気まずくなってしまうなんて。 「いいよ。ごめんな」 頭をぽんぽんと叩くように撫でると、美幸はくすぐったそうにその手に触れた。 丁度そのとき。扉の向こう側から、慌ただしく駆け寄る音がしてきた。 (ああ、悟志が来たか) 認識した瞬間にチャイムが鳴る。貴幸は扉を開けてやった。 はあ、はあ、ぜえ、ぜえ。ドアの奥にいた悟志は、肩で大きく息をしていた。 「は、……はー、はあ、はっ、はあ……ふー、はあ、はあ……」 「わっ……! さ、悟志! どうしたんだよ、そんなに息切らして!」 「はあーはあーはあ……あ、ぼ――はあ、はあっ、はー……!」 悟志は一度身を起こし、今来た道の方を指差したがすぐに再び呼吸を整え出す。よほど疲弊しているらしかった。 「悟志くん、もしかして、あれからずうっと全速力で走ってたんじゃ……。だ、大丈夫?」 確かに。自分の家まで行って荷物を取って、それから来たはずなのにやたらと早い。 「はー……はあ、は……。う、ん……はあっ、はあ」 息を荒げたままで悟志は頷いた。膝に手をつき、咳き込みそうな勢いである。後ろには開けっぱなしの鞄が見えた。中にパジャマがぐしゃぐしゃに詰められているのが見える。しかし、服だけにしてはやけに厚みのあるバッグだ。 「悟志、おまえなあ……! ゆっくり来たって十分ぐらいしか変わらないだろ? 無理すんなよ」 「だ、だって、はあ、はあっ、僕……はあ。惜し……はあ、くって、はー、はあ、っ時間……」 「お、落ち着いて、悟志くん」 おろおろしながら美幸は悟志を思いやっている。 しばらくすると悟志はようやく普段通りの呼吸に戻り、心から嬉しそうな笑顔を浮かべながら顔を上げた。それでも頬はいつもよりも上気している。 「い、……家にね、はあ、メモ置いてきたよ。行ってきます! って」 「それだけで分かるのか?」 「どうだろう。分からなかったら、きっと携帯に電話が来るよ」 そこまで聞くと、未だに眉を下げていた美幸は、思わずと言った風に吹き出した。あは、あはは、と小さく声を立てて笑っている。 「もう、悟志くんってば。そこまでしなくてもお兄ちゃんは逃げないよ?」 「逃げるもん……」 笑い飛ばされて悟志は少々拗ねたようだ。不満顔で美幸を見て、チラリと貴幸を見て、また美幸を見て眉を寄せる。 その表情は年相応に子どもらしかったが、貴幸はドキッとしてしまう。いくつかの意味で。 「……ところで悟志。本当に俺の部屋で寝る気か? 客用の部屋に行けよ」 「どうして? 昔から、泊まるときはタカちゃんの部屋だったのに」 その通りなのである。本当に小さな頃は、三人とも母と一緒に寝ていた。けれど、ある程度大きくなってからは、悟志は貴幸の部屋で雑魚寝するようになっていたのだ。 だがそんなのはあくまで昔のことである。 「何月だと思ってるんだよ。床で寝ちゃ風邪引くぞ」 「毛布があればいいでしょ?」 「忘れたか? 客用の布団は一階。わざわざ二階に持ってくるなんて手間だぞ」 「毛布と枕なら持ってきたから、大丈夫」 タオルケットだけどね。冗談っぽく言って悟志は指でピースを作っている。 「それで鞄が大きいんだ! 悟志くん、すごい」 美幸はひたすら感心しているが、貴幸は驚くばかりである。 わざわざ毛布を。一体どこまで考えて持ってきたのかは分からないが、道理で来たときあんなに息を上げていたわけである。 悟志はペコリと頭を下げた。 「そういうわけで、お世話になります。タカちゃん」 「ね、それより、早く行こう。ずっと玄関じゃ寒いもん」 「……ああ」 もはや断ることなどできない雰囲気だった。仕方なく頷き、三人で階段を上っていく。 「家庭科の素材、どれ注文するか決めた?」 「うーん。私はマフラーにしようかな」 悟志と美幸は他愛ない会話をしている。 二階に着くと、すぐ側の部屋で母親がアイロン掛けをしていた。先ほどからの物音や声で大体の出来事は分かっているらしく、手を止めて微笑みかけてくる。 「悟志、今日は泊まっていくって? 久しぶりねえ」 「はい。よろしくお願いします」 軽くペコリと挨拶をしてまた部屋へ向かう。 悟志と長い付き合いの母は、彼のことを呼び捨てにする。悟志も昔は母に対し、もっと親しげに話していたのだが、中学に入ったあたりからだんだんと敬語を使うようになっていた。 それでも気心知れているからか、その表情は親しげだ。 「じゃ、入れよ」 少し歩くと貴幸の部屋に着く。悟志は荷物がある分、入るのがちょっと大変そうである。『うんしょ』と声を出しながら引きずるようにバッグを中に入れていた。 「お兄ちゃん達って、いつもこうやって勉強してたんだ」 「そうだよ。ユキちゃんも毎回来たら?」 「ううん、真面目に勉強する二人の邪魔をしたら悪いから……」 「今日だって真面目にやれよ?」 貴幸が突っ込むと、美幸は照れたように笑った。 さすがに三人で使うとテーブルは狭かった。昔はこうして座っても全然余裕だったのに、大きくなったものである。 取りあえず宿題でもやろうかと、貴幸は自分の鞄を開けた。すぐに目に留まったのはクッキーだ。下校前に加奈子から貰ったものである。 (今は悟志たちも居るし、後でいただくことにしようかな) ラッピングされた袋を手に貴幸は立ち上がった。そして、奥の勉強机まで歩いていって、机の上にそれを置く。 悟志たちも、自分の道具を出しながらその様子を見ていた。 「お兄ちゃん、その包みどうしたの? 可愛いね」 「クッキーだよ。クラスの女子に貰ったんだ」 「クッキー!?」 美幸が尋ねて悟志が驚いている。テーブルにまた腰を落ち着け、ノートを捲りながら貴幸は話した。 「ああ。作りすぎたんだってさ」 「た、タカちゃん、その子と仲いいの?」 「そうだな。女子の中では、最近結構話してる方かも」 何故だか悟志は愕然としていた。そして美幸もショックを受けたように固まっている。 「お兄ちゃん、それって……。ど、どうしよう、私のお兄ちゃんに彼女ができちゃう」 「何だよそれ。別にそういうんじゃないよ」 声を少し震わせる美幸に、貴幸は、子どもだなあと思いながら否定してやった。 (ったく、いつになっても兄離れしない奴なんだから。何だよ、『私の』お兄ちゃんって) 昔から美幸はブラコン気味だった。どうやら未だに、貴幸に女友達が居るというだけでも『お兄ちゃんを取られた』とでも思ってしまうようだ。……単にこの場合は、貴幸が鈍いだけなのだが。でも何にせよ、ちょっぴり嬉しくもある貴幸だった。 悟志はシャープペンシルの端を軽く噛みながら、じっと二人の会話に耳を傾けていた。 「タカちゃん。もしもその人に告白されたら、付き合うの?」 「あーもう、そういう仲じゃないって」 「やだなあ……」 「だ、大丈夫だよ。悟志くんもすぐに彼女できるよ。だって悟志くん、人気あるもの」 悟志が呟くと、励ますように美幸が言った。貴幸に先を越されるのが嫌だという気持ちからのぼやきだと思ったらしい。 実際には悟志には彼女がいるのだから、越されたのはむしろ貴幸なのだが――。 (美幸は知らないのか。彼女のこと) ちょっと変な感じがした。 普通、同じクラスにカップルがいれば嫌でも目立つものだ。なのに美幸が知らないということは、悟志は恋人とのことを周囲に隠しているのかもしれない。 そもそも悟志は、恋人とどんな風に付き合っているのだろうか。美幸が知らないということは、会うのは主に学外か。だとしたら休日?貴幸はつい、恋人と楽しそうに歩く悟志を思い浮かべてしまった。 どんな子だろう。どんな私服を悟志は着るんだろう。どんな話をするんだろう。そして……どんなキスを、するんだろう。 (激しいのかな……) 練習とか言って、あんなにベタベタしてくる悟志のことだ。相手が恋人となったらどのように触れるのだろうか。 緊張してぎくしゃくしながらその手を恋人に伸ばしたりして、体をちょっとずつ近づけて。 それから、それから――。 「タカちゃん?」 「うぅわっ!」 突然呼びかけられ、思わず情けない大声で答えてしまった。 しまった。変な想像に熱中してしまうところだった。あんなことを一生懸命考えてしまうなんてどうかしている。しかも自分一人ならともかく、悟志と美幸がこの場に居るっていうのに。 「タカちゃん、どうしたの? 難しい顔したまま固まっちゃってたよ?」 「い……いや、何でもない。この問題難しいな、って」 「教科書開いてないけど……」 「……まあちょっと、考え事」 悟志はまだ納得していないようだったが、それに気づかない振りして宿題のページを開く。集中して見えるようにわざとハイペースで解き始めると、悟志たちもまた自分の勉強を始めたのだった。 |