悟志の家には父親がいない。母親が離婚したのではなく、元々いないのだ。悟志は父の話をするとき、絶対に『父さん』とは言わない。辛さを押し込めるように『父親』と言うだけだ。
悟志は彼の話をめったにしない。そして彼のことを話すとき、悟志は泣かない。あんなに泣き虫な悟志なのに。今よりずっと幼いときからそうだった。 なのにその瞳は涙を見せているときより辛そうなのである。 悟志の母は、引っ越してきた頃には相当噂を立てられていたらしい。貴幸はその頃まだまだ小さくて、内容は理解できなかった。それでも周囲が、悟志たちを避けようとしている気配はよく伝わってきた。 だけど貴幸には、見かけるたびに俯いて今にも泣きそうな悟志のことが放っておけなくて――ずっと昔、同じ公園にいた彼を、遊ぼうと誘った。すぐ隣にいた美幸は、貴幸より更に幼くて噂のことなんて知らなかったので、遊ぼう遊ぼうと楽しそうに笑っているだけだった。 ――いい。 始め、悟志はそう言って首を振った。拒絶するように。ほんの子どもだったくせに、その瞳はもしかしたら今より冷めていたかもしれない。そんな顔を見て貴幸に放っておけるはずがない。 ――いいから来いって。 そう言って、嫌がる悟志を半ば強引に砂場に引っ張っていった。あっ、と驚いた声を上げる悟志のことを、周りの子どもたちはジロジロと見ていた。 別に彼らが悟志に対する悪意を持っていたわけではない。だけど、親の言うことが絶対の年代である。あの子は付き合っちゃいけない子。関わっちゃいけない子。それしか考えられなかったのだろう。 無理矢理連れて行っても悟志は、立ったままで何もしようとしなかった。ただその無感情な瞳に僅かに戸惑いを滲ませて、貴幸と美幸が砂の城を造るのをじっと見ていた。 ――おまえもやれよ。 ――……僕がいると、ママが怒るよ。 声を掛けても動かない。悟志は場を去るでもなく、何を考えているのか分からない顔をしたまま止まっていた。 何だよこいつ、せっかく誘ってやったのに。貴幸の頭に浮かんだのは短絡的な怒りだった。ほんの子どもだったのだから当然である。 ――いいから! ――あっ。 強く引っ張ると悟志は転んでしまった。それでも泣きもしない。貴幸は彼の小さな手を取り、その手に砂を握らせた。 ――砂、ここにやって。 指を差して指示すると、悟志はようやく、手を動かした。恐る恐る閉じた手を開き、城に砂を撒き掛ける。 ――わあい、お城。お城。 美幸はぱちぱちと手を叩き、楽しそうに笑っていた。 それきりまた動かない悟志に、貴幸は再び、砂を掴ませる。 ――ほら、やれって。 もう悟志は何も言わなかった。さっきよりもゆっくり、震える手でその砂を散らす。 ――何だ、できるじゃん。もっとやれよ。 貴幸が更に促すと、やっと悟志は自分で砂を握った。そしてそれを同じように掛けて、……何秒か黙ってから唐突に、――泣き出した。 最初は声を出さずにポロポロと泣いていたものだから、貴幸も美幸も気がつかなかった。 だけど仲間が増えて楽しくなって、笑って振り返ったら悟志が大粒の涙を零していて。気づいてギョッとしたとき、悟志は何の感情も浮かべていなかった顔をくしゃくしゃに歪めた。そして。 ――……う。うっ、……ふえ、……うわああああああん……。 声を上げて泣いた。いつまでもいつまでも。公園一帯に子どもの泣き声が響き渡る。保護者たちは一瞬振り向いたけれど、公園で子どもが泣いているのなんて珍しくないし、その相手が悟志だったので気にせずにまた雑談を始めた。 貴幸には今でも悟志が泣いた理由なんて分からない。美幸はつられて泣き出した。うわああん、わああん、うわああああんと。 両側にいる二人が泣き出して、貴幸はどうしたらいいのか分からなかった。おい、泣くなよと言って二人を見ることしかできなかった。 そんな悟志が泣き止まないうちに、少し場を離れていた彼の母が戻ってきて、慌てて近寄ってきた。 泣く悟志を抱っこして、その背中を優しく叩く。 ――ど、どうしたの、悟志。何があったの……? いじめられた? 悟志はぼろぼろと泣きながら、それでも一生懸命首を振り、だけど言葉が出ないように泣き続けていた。 あの日のことを、小さかった貴幸はあまりよく覚えていない。だが悟志は今でもよく思い出せるらしい。一体何歳のときの話だと思っているのだろう。それだけ強く印象に残ったということだろうか。 とにかくその事件があってから、会うと悟志はおずおずと近づいてくるようになった。そして当時貴幸たちの周囲の大人が呼んでいたように、二人をタカちゃん、ユキちゃんと呼ぶようになった。 無表情だったくせに次第によく笑うようになって、泣くようになって。 貴幸たちの両親が偏見のない人たちだったのも、今にして思えば幸いだったのだろう。悟志の母は当時から仕事で家を空けがちだったから、しょっちゅう悟志は貴幸の家に来るようになった。それこそ、泊まったことも何度となくある。 実の家族のようにいつも一緒だった。悟志の母親も貴幸たちを強く信頼するようになり、ずっと家族ぐるみで付き合ってきた。 大きくなるにつれ、悟志の家にまつわる下らない噂は消えていった。悟志の母親の堅実ぶりが周囲に伝わり、子どもたちも次第に自分で判断するようになっていったからだ。 付き合ってみれば悟志という奴は、穏やかで甘えん坊で可愛くて、子どもたちも親の話とは何かが違うと思ったのだろう。今では悟志は、誰とでも円満に付き合っている。 悟志の父がどんな人で、母に何があったのか。貴幸は敢えて聞こうとしなかったから、今でも大まかな事情しか分からない。悟志だって言おうとはしない。 それでも時に、ああして弱音を吐くことだってある。貴幸だけに。 ――そこまで自分を慕ってくれる悟志を、二年も避けてしまった。自分勝手な理由で。彼がどれだけ傷ついたのか、きっと本当の意味で貴幸に分かる日は来ない。 考え出すと本当に申し訳なくなる。だけど再び悟志と仲良くしたいとは思えない。つくづく貴幸は自分が嫌になってしまう。 「悟志……」 一人、部屋で呼んでみる。ベッドで毛布を抱いてそんなことをするのなんていかにもで、貴幸は恥ずかしくてますます手に力を込めた。 『悟志』と呼ぶ貴幸の声が優しいなんて、それは悟志の気のせいだ。だって、もしそうじゃなかったら――。 頭は悟志のことでいっぱいだった。ぐちゃぐちゃで、これまでのこと今日のことがこんがらがって何も分からなくなる。 それでも一つだけはっきりしていることがあった。 きっと、次に会ったときにも『練習』をすることになる。 |