恋の仕方を教えて * 5

 そんなことをしておきながら、次に会ったときの悟志はごく普通だった。いつも通りの時間に来て、いつも通りの笑顔で貴幸に挨拶をしてきていた。尤も、彼はあれを散々『練習』なんて言っていたから気にした様子が無いのは当然なのかもしれない。一人で緊張していた貴幸が馬鹿みたいだった。
 しかも。部屋に来てからも悟志は、
「タカちゃん。今日ね、担任の先生が『ドキがムネムネしちゃう』って言ってたんだよ」
 などという他愛ない話ばかりをしてきていた。本当に前回のことなど気にしていないようである。
「何だよそれ。くだらなすぎて面白いな」
「でしょ? クラス中が爆笑だったよ」
 今日は話しながらもちゃんと勉強しているが、やはり意識は会話に向いているようだ。手の動きがゆっくりである。
 こいつ本来の目的を忘れてるんじゃないか、と貴幸は声を掛けた。
「それはいいけど、悟志。おまえ勉強の方はどうなんだよ」
「あ、うん。数Aで分からないところがあるんだけど――」
 すぐに悟志は疑問を投げかけてきた。まるで予め用意していたかのように。
 教科書を開き、例題に指を差す。
「この二項定理の式が複雑でさ、やってる途中でこんがらがっちゃうんだ。教えてくれる?」
「ふうん。どれ、ちょっと見せてみ」
「はい」
 悟志から教科書を受け取り、自分のノートで実際に解いてみる。二項定理なんて久々だ。教科書の説明を見るまで忘れてしまっていたが、それでもしばらくの時間で解くことができた。
 どう解説しようか軽く考えてから、貴幸は式を書いたノートを悟志に向けた。
「まず、ここなんだけどな」
「ふむふむ」
 悟志は身を乗り出し、説明を真剣に聞いていた。
「――で、――が……だから、こうなるわけだ。分かったか?」
「うん。なるほどね」
 途中で悟志にも考えさせたりしつつ最後まで解説を終えると、悟志は納得したように深く頷いた。
 そうして分かってもらえると、貴幸としても嬉しくなる。とはいえ、昔から悟志は理解の早い奴だった。だから伝わっただけかもしれないけれど。
「ありがとね」
 悟志が教科書を自分の方に戻しながら微笑む。
「タカちゃんってさ、教えるのうまいよね。将来は先生になったら?」
「こーら。おだててないで、自分でもやれよ」
「あ。ほら、その言い方が既にそれっぽい」
 くすくすと悟志が笑う。シャープペンシルを口元に当てる仕草が愛らしい。
 ふと気になって貴幸は尋ねた。
「悟志、他の教科の成績はどんな感じなんだ?」
「ん? まあまあかな」
「今度、通知票持ってこいよ」
「見せられるようなもんじゃないよ。恥ずかしい」
「恥ずかしい? 何を書かれてるんだよ、悟志は」
 考えてみて笑ってしまう。悟志のことだから、通信欄に『泣き虫です』なんて書かれていたりして。
「んー……」
「悟志?」
 だが、そうして聞いているのに、悟志はどこかぼんやりと頬杖をついている。ぽーっとして、まるで日向ぼっこでもしているように幸せそうだ。
 貴幸はもう一度呼びかけることにした。
「おい、悟志。悟志」
「……あ。ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「それは見てれば分かるよ。どうしたんだ急に」
 姿勢を変えないままで悟志は照れ笑いをした。
「思ってたんだ。タカちゃんが僕を呼ぶの、好きだなあって」
「え? 俺が?」
「うん。……ずっと呼ばれていたくなる」
「何だよそれ」
 変に可愛らしい理由だ。貴幸は吹き出しそうになってしまった。
 しかし、悟志は少し寂しそうに眉を下げる。
「『志を悟る』。……僕の名前、父親がつけたんだってさ。母さんが言ってた」
「……ふうん」
「僕が、自分にとって本当に幸せな道を知って生きていけるように、だって」
 貴幸には何も言えなくなってしまった。
 悟志の口調は物静かだ。そして口元でも笑みを象っている。完全に初めて聞く話というわけでもない。――けれど彼の心中を思うと、貴幸には相づちすらも打てなくなる。
「どんな気持ちでつけたのかって感じだよね。今でもたまに、母さんが僕を呼ぶときに何を考えてるんだろうって思うことあるよ。そんな日には誰にも名前を呼ばれたくなかったりして……」
「悟志……」
 悟志がこんな話をするのは珍しい。もしかしたら、彼は今日何か嫌なことでもあったのだろうか。表には出していなかっただけで、弱音を吐きたくなるような何事かが。
 しばらく黙った後、悟志は表情をふと和ませた。
「でもタカちゃんは別。タカちゃんが僕の名前を呼ぶのって、嬉しくて好き。どうしてかな。さとし、って呼び方がすごく優しい」
「……俺は好きだよ、悟志の名前。いい名前だと思ってる」
 本心から言うと悟志は微笑んで、ありがとうと呟いた。笑顔に胸が締め付けられる。
 貴幸がそれ以上は話せずにいると、悟志は視線を下ろし、手を動かし始めた。先ほど教えた部分を自分で解いているようだ。その姿を見て貴幸も、まだちょっと切ないままで自分の宿題を再開した。
 ほんの数分後、悟志は貴幸の名を呼んだ。真面目な声で。
「ね、タカちゃん」
「どうした?」
 また何か、吐き出したいことでも浮かんできたのだろうか。貴幸はできるだけ優しく答えた。
 しかし。
「『練習』したい。今日も」
 悟志が言ったのは、さっきの話からは全く想像のつかないものだった。
 唐突さに貴幸はぽかんとしてしまう。
「この前したとき、あんまりうまくできなかったでしょ。だから今日もしたいんだ」
「……あ、あのな。駄目に決まってるだろ……」
「ええ? どうして?」
 拗ねたように悟志が言う。
「前回は言いそびれちゃったけど、こんなの、練習することじゃない」
「そんな。だって僕、まだ一回しか練習できてないんだよ。このままじゃうまくできないよ」
「それはそれでいい思い出になるよ。とにかく駄目だ」
 一回じゃなくて三回だろう、と心の中で突っ込みつつ貴幸は答えた。だが悟志は不満顔のままだ。
「どうして? いいじゃない、ただの練習なんだよ」
「あれが『ただの練習』で堪るか」
「考えすぎだよ、タカちゃん。あんなの、ここで勉強を教えてもらうのと変わらないって」
「いや。それはさすがに違うだろ」
「僕にとっては一緒だもん」
「とにかく駄目なものは駄目」
「えー……」
 残念そうに、悟志はシャープペンシルをくるくる回した。
(悟志って、こんなに常識の無い奴だったかな)
 練習と言って男相手にキス。本気としても冗談としても、どう考えても普通じゃない発想だ。前者なら特に。
 昔の悟志は、もっと常識のある奴だった。『お菓子はそこのチョコ二つよ』なんて言われたのに貴幸が三つ食べようとすると、『止めておこうよ、タカちゃん。怒られちゃうよ』とおろおろしながら言っていたほどに。……それは常識があるというよりも、気弱に分類されるエピソードかもしれないが。
(それにしてもキス……か)
 変なことを言われたものだから意識してしまって、目が悟志の唇に行く。
 これが、一度は貴幸に触れたのだ。そしてもしも今、貴幸が彼の言葉に頷けば、再び触れることになる箇所でもある。
 それはどんな触れ方だろう。練習なんて言うからには、何度もするんだろうか。うまくいくまで何度も角度や深さを変えて、何回も――。
 こんなことを考えてしまう自分が嫌で、貴幸は自分の手を強く握った。
 そのタイミングを計ったように悟志がもう一度聞いてくる。
「タカちゃん、ほんとに駄目? ……ただの練習なんだよ?」
「……本当に、『練習』、……なんだろうな…………」
 ぼそり。つい、言ってしまっていた。その途端に後悔する。何を言ってしまっているんだ俺は、と。
 だけどもう遅かった。悟志は嬉しそうににっこり笑って、
「うん! 練習!」
 と言うと、貴幸の隣に身を寄せてきた。
(何てこと言っちゃったんだ、俺……)
 同じことをもう一度思う。気持ち任せにとんでもないことを零してしまった。
「えっと、……じゃあ、し、します」
「…………」
 悟志は貴幸の肩に手を掛け、照れながら宣言をしてきた。そんなこっぱずかしいことはしないで欲しい。一気に貴幸に恥ずかしさが沸いてきた。
「このくらい、かな」
 悟志が顔を傾けたので、貴幸は緊張しつつ目を閉じた。これからすることを思うとつい俯きがちになってしまう。悟志が顎を掴んで、くい、と上を向かせる動作にもびくんと反応してしまった。
 前回のキスは不意打ちのようなものだった。これからするのだと意識して口づけるのは、今回が初めてだ。
 心臓の音がどんどん激しくなっていく。
 ついに唇はゆっくりと触れ合った。今度は頬に当たることはなく、きちんと唇同士のキスだった。強くはない。しかし、物足りなく思う間もなく深くなっていく。
「ん……」
 ――気持ちがいい。
 反射的に、貴幸はそう感じてしまっていた。悟志の唇は柔らかい。暖かい。緊張からか、肩を掴む手に力が篭もっている。呼吸の際に洩れる彼の声が、ああ、悟志だと思わせる。心が不思議と落ち着いて、なのにその一方でざわついて。それでも全てが心地よかった。
(やば……)
 唇を離し、興奮気味に息を吐いてからもう一度悟志はキスをしてきた。
 こんなの駄目だ。良すぎて駄目だ。理性的な思考が浮かんだ瞬間に消えていく。ただ与えられる気持ちよさに夢中になって、時間すら忘れてしまう。
「……タカちゃん……」
「う、……」
 離れて、甘い声で貴幸を呼んで、もう一回。そんな風にされたら堪らなかった。ちりちりと灼けるように体が熱くなる。
(ど、どうしよ……)
 下半身にまで痺れるような気持ちよさが走って――反応してしまいそうだ。それは本当にまずい。
 焦って軽くもがいたとき。パッと、丁度悟志が離れてくれた。貴幸の抵抗を感じて止めてくれたのだろうか。
「…………」
 キスが終わった途端、じわじわと後悔が沸き上がってくる。
 ――また、キスをしてしまった。それも今回は、自分から受け入れるようなことを言って。
 どうしようもない自己嫌悪と、それを上回る気恥ずかしさに襲われて貴幸は下を向いた。悟志も同じく俯いた。
 きっと今、貴幸は顔が赤くなっている。自分でも分かるほど頬が熱かった。
「タカちゃん……。あの、どうだった?」
「……と、とりあえず。変な確認はいらないと思うぞ」
「確認?」
「その……。『するよ』とか、そういう」
「ああ……」
 理解したように悟志が言う。
 そして、次の瞬間再び指でくいっと上を向かされて――ちゅ。今度は一瞬だけだ。
 貴幸は驚いて、今回はキス後も顔を上げたままだった。悟志の顔は真っ赤だ。もしかしたら貴幸よりも。いや、絶対に貴幸よりも。
 悟志は、えへ……と照れたように口を切る。
「こんな感じ? 確認取らないって」
「あ、ああ。いいんじゃないのか……」
 返事はどうしても小声になってしまう。
「そっか。ありがと」
 悟志も小さく言って、自分のいた場所に戻っていく。そして二人は同時に勉強を再開した。
「…………」
 恥ずかしくて何も言えない。無言だ。
 貴幸の頭は何も考えられなかった。教科書を見ても頭が全く働かない。シャープペンシルを握って黙り込むのみだ。
「あ、あのー」
 全く手を動かさないまま悟志が言った。
「その、僕。宿題終わったし、結構いい時間になったから……帰るね」
「……ああ。分かったよ」
「うん。またね」
 今日は、悟志は荷物を忘れなかった。机に出ていたものを急いで鞄に詰め込んで、うっかり貴幸のノートまで一緒に入れてしまって、気がついて慌てて取り出す。
「それじゃあ!」
 悟志が立ち上がったので、部屋の中からでも見送ろうと貴幸も立つ。意識のしすぎて玄関まではとても送れそうになかった。
「んっ……」
 そうして立ち上がった瞬間に、もう一度だけ悟志が唇をつけてきた。最後のキスは短い。掠め取るようなキスだった。
 離れた悟志は、すぐに後ろを向いた。
「またね、タカちゃん!」
 部屋から出て戸を閉めるなり、ばたばたばたと走っていく音がする。
 貴幸は微塵も動けない。悟志が去ってからしばらく、突っ立ったままだった。
(……『練習』だよな、今のって)
 ようやく我に返るとすぐに、貴幸はベッドの上に転がった。
 下肢が熱くてどうしようもない――。じんじんして意識がそこにいってしまう。
 だけど、手を伸ばしたら悟志のことを考えてしまいそうなのが自分でもよく分かっていた。だから毛布を強く握ってそれをやり過ごす。
 胸の熱は当分引きそうになかった。

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