貴幸はこれまで、彼女という存在を持ったことがない。とはいえ青春まっただ中の年頃で、バスケ部のレギュラーで、見た目も性格も良い方で。決してもてないわけではなかった。告白も何度かされたことがある。だけど、それを受け入れたことは無かった。
だから有益な助言なんてできるか分からないのだけれど、悟志はこくりと、同じように頷いた。 「実は……き、キスが、できなくて」 「キ、……ス」 視線を逸らし、手を机の下で組む悟志の顔は赤い。その相談内容もあって、貴幸まで照れてしまう。 「どんなタイミングで、とか。どう切り出してどんな角度ですればいいのかな、とか」 悟志が具体的にぽつぽつ話し出す。 言うまでもないけども、今まで付き合った相手がいない貴幸は、当然キスもしたことがない。だから、隣にいる悟志がキスをしようとしたのだと思うと、途端に彼が大人っぽく見えてきてしまう。 「鼻とか歯がぶつからないかなとか……」 つい口元に目がいってしまう。話すたびに動く悟志の唇は、形が良くて薄めの色で柔らかそうだ。 この唇は――誰かと口づけることを考えたことがあるのだ。 「だから僕……タカちゃん?」 「えっ!? あ、ああ! 聞いてるよ」 「本当かなあ」 そう言って悟志は苦笑いを浮かべた。 (まずい。何考えてるんだ、俺は……) 自己嫌悪してしまう貴幸だった。 悟志はそんな貴幸の様子に気づかなかったようで、改めて聞いてくる。 「ね、タカちゃん。キスってどんなタイミングでするものだと思う?」 「……それは……いいムードになったとき、じゃないか?」 分かるはずがない。それでも貴幸は平静を装って言った。だって、悟志の前でうろたえるなんて恥ずかしいから。 「いいムード、かあ。そうならないときはどうするの?」 「ん……。そりゃあ、自分でムード作るしか無いんじゃないのか」 「どうやって?」 机に身を乗り出し、悟志が尋ねる。その瞳は結構真剣だ。そんなに真面目に聞かれると、一般論を言っているだけの貴幸は返答に困ってしまう。 「そうだな。そっと手を握って、好きだよって言うとか」 「それって経験談?」 「いや。想像」 改めて考えると恥ずかしくなってくる。経験も無いのに、想像でアドバイスするなんて。 やっぱり参考にしないでくれ――、と貴幸が言いかけたとき。 いきなり、机に置いていた手に悟志の指先が触れた。 「わっ!」 急なことに跳ねそうになる指を、悟志が押さえつける。そのままギュウと握られた。……暖かい。貴幸は戸惑ってしまう。 「急に何するんだよ」 「ん? 手を握るって、こんな感じでいいのかな、って思って」 「こんな感じでって、それは――」 恋人にやってみろって意味で言ったのだ。そう諫める間もなく 「好きだよ」 小さく、悟志が言った。 乗せた手に弱く力を込めて。貴幸の目を見つめて。つい先ほど泣いたばかりの、赤い瞳で。 ――ドクンと心臓が跳ねた。 「えへ。やっぱり、練習でもこんなこと言うと照れるね」 すぐに悟志は笑ってそう言ったけれど、貴幸はドキドキしたままである。 近くで見ると、悟志はやっぱり綺麗な顔立ちをしていた。全てのパーツが形良く、まだ幼げなところ含めて格好いい。 涙で朱に染まった顔でそんなことを言われると、まるで本当に告白されたようだった。 「練習……って、あのなあ……」 「どう? ムードを作るって、こんな感じでいいのかな」 悟志は貴幸の気持ちなんて知らずに、いつものように邪気のない表情で微笑んでいた。確かに相談を聞いてやるとは言った。だけど、これはさすがに違うだろう。 「……そういう問題じゃないだろ」 否定すると悟志はきょとんとした。 「何が?」 「あのな、どうして好きなんて俺に言うんだよ」 「ムード作りの練習のためだよ」 「…………」 駄目だ。ずれている。貴幸には何も言えなかった。 「練習とはいえ、そういうのは男に言うもんじゃないだ?」 「何で? 女の子に言ったらもっと危なくない? 浮気だーってなっちゃう」 「だからって俺に言うな!」 根本から理解できていなさそうな悟志に、貴幸は思わず怒鳴りつけた。すると悟志はぽかんとした後、見る見るうちに瞳を潤ませた。 「あっ!」 「た、タカちゃん。……ごめんね、僕……。こんなこと失敗したら恥ずかしいなって、……ひっく、タカちゃんだったら聞いてくれるかな……って、思ったんだ……けど。ぐすっ」 話しながらもどんどん声が震え、今にも涙が零れそうになっていく。 「あーもう! 泣くなって悟志!」 「だって、タカちゃんが怒るから……」 「もう怒ってないよ、だから泣くなよ」 悟志が泣くのに、昔から貴幸は弱いのだ。とても心細そうに泣くものだから心配で堪らなくなってしまう。しかも、泣かせたのが今みたいに貴幸本人だとしても、それでも貴幸を頼り続ける。……昔から弱かった。 貴幸はごそごそとポケットを探りハンカチを取り出した。それで悟志の目元を軽く拭き、そのまま渡してやると、悟志は半べそのままとはいえ泣き止んだ。 「怒ってないって、本当?」 「ああ。本当だよ」 ひとまずホッとして頷く。すると悟志はまたもとんでもないことを言ってきた。 「それじゃあ、……また今みたいに『練習』してもいい?」 「な……! それとこれとは、話が別だろ!?」 「だって、僕……。タカちゃん以外にこんな相談できないもん」 タカちゃん、お願い。悟志はそう付け加え、上目遣いに貴幸を見た。甘え全開の純粋な視線である。断られることなんて想像してもいないのだろう。こんな目を向けられてしまったら、貴幸にはもう断れなかった。 「……分かったよ。あくまでも『練習』に付き合うだけ……だからな」 「うん! ありがとう、タカちゃん!」 こくこくと頷く悟志は本当に嬉しそうだ。 (そんなに、彼女とキスしたいのか) 胸がずきりと痛む。馬鹿な痛みを堪えるように、貴幸はシャツの胸元を軽く握った。 悟志の恋人って、一体どんな子なんだろう。きっと可愛い子だ。大人しい子だろうか、それとも悟志を引っ張るような元気な子だろうか――。ああ、次に三階に行くことがあったら、悟志のクラスを覗いてあれこれ考えてしまうかもしれない。 「ね、タカちゃん。もう一つ聞きたいことがあるんだけど」 「何だよ?」 簡単に返すのが精一杯だった。悟志はにっこり笑うと、 「キスするときの角度、教えて。『練習』で」 と言った。 (待て。さっきの流れからこの会話って……) 嫌な予感が貴幸に走る。悟志はまるで子犬のように愛らしい顔をしているけれど、今の貴幸には彼が、狼の成犬のようにすら思えた。 「顔、ちょっと傾けるんだよね。どのぐらいかな?」 「俺には分からねーよ! とにかく悟志」 止めようとした瞬間、悟志が机に両手をついた。そしてそのまま体を貴幸に近づけていく。 気づいたときには――唇と唇が、触れ合っていた。 「……っ!」 いや、触れ合ったという表現は間違いかもしれない。一方的に触れられたのだし、唇同士というよりも唇と頬だったのだから。初めてで正確な位置に触れるのは、悟志には無理だったようだ。 反射的に目を閉じてしまった貴幸の耳に、はあ、と悟志の呼吸音が届く。我に返ってゆっくり瞳を開くと、すぐ目の前に悟志の顔があった。 「ん。唇に触るのって難しい……」 それだけ呟くと再び、ちゅ。今度はちゃんとしたキスだった。押しつけるようでぎこちなくはあったけれど。 うまくいったことに気をよくしたのか、離れてすぐにもう一度、ちゅ。室内は不自然なほどに静まりかえっていた。 (な――) 貴幸の頭は真っ白だった。感触すら分からなかった。ただ悟志が近づいてきて、……キスを、された。そのことしか分からない。 「はあ」 三回もキスをして、ようやく悟志は身を戻した。貴幸は、ぺろりと自分の唇を舐める悟志のことを呆然と見ていた。 悟志は止めるのも聞かずに強引にキス、もといキスの『練習』をしておいて、とても恥ずかしそうに笑っている。 「えへ。ファーストキス」 「な、…………さと……」 「――あっ! え、ええと。僕、急なんだけど、きゅ、急用思い出しちゃった!」 わざとらしく言い、悟志はガタンと勢いよく立ち上がった。真っ赤な顔で。 「じゃあね、タカちゃん。今日はその、……ありがとう。またね!」 「おっ、おい、悟志――!」 バタン、バタ、ドタドタドタ。 呼び止める声も聞かずに悟志は行ってしまった。部屋に残るのは貴幸だけだ。 一人になってようやく、貴幸の頭は働きだした。そして考えてしまう。たった今されたこと。キスのことを。 (あ、あいつ! 何ていうことを……!」 ファーストキス、なんて言って悟志は照れ笑いしていたけれど、貴幸だってそれは同じことだ。しかもこっちは奪われた側である。止めようとしたのに何てことをしていったのか。 悟志が泣いたこと、彼女がいること、キスされたこと。何もかもが頭の中でぐるぐるとこんがらがっていく。 でも、何も考えられなくて感触もろくに覚えていないけれど――柔らかかった気がする。 (キス……か) そのまま放心したようにぼんやりしてしまう。 机の上では二人分のノートや筆記具が転がっていた。悟志の奴、いきなり急用とか言って、自分の荷物も持たずに出ていってしまったのだ。 仕方がないので貴幸は彼の忘れ物をまとめ始めた。悟志のことを考えながら。 嫌悪感は無かった。むしろ、恋人がいるのに男なんかとキスをしてしまった悟志の思考回路が心配になってしまうぐらいで。……キス。改めて浮かんだ単語に、貴幸の頬が熱くなっていく。 (何を考えてるんだ俺は……! ここは、男なんかにキスされたって、ショックを受けるところだろう……!) だけど心は言うことを聞かない。悟志とのキスは気持ち悪いだなんて思えなかった。 それでも確かなショックは受けていた。しかしそれも、キスされたことではなく。 (……恋人、か。悟志に……カノジョ) 再び胸がずきずき痛む。――でも、さっきも思ったけれど、悟志に恋人がいるのは何らおかしいことではない。むしろ当然だ。いた方がいいのだ。そして彼女に夢中になって、貴幸とは今度こそ疎遠になって――そうなって欲しい、はずだった。 なのに、心はまるで大きな穴を開けられたように、悲しくて寂しくて痛い。 (……分かってたけどさ。俺って、やっぱり、まだ) ノートに書き込まれた悟志の文字を見ながら、貴幸は深く息を吐いた。 悟志の鞄に荷物を詰め込んで、階段を下りていく。 美幸は一階でテレビを見ていた。しかし物音で悟志が来ることは分かっていたらしく、開ける前から扉の方を向いていた。 「よ」 何事も無かった振りをして声を掛ける。 だが、貴幸の姿を認めるなり美幸は心配そうな目を向けてきた。 「あ、お兄ちゃん。何かあったの……? 悟志くん、さっき、走って帰って行っちゃったよ」 「ああ。何か言ってた?」 「ううん。何にも……」 そう言って美幸は首を振る。心配そうな表情で。 昔からあれこれ面倒を見てやったせいか、美幸は今でも少々精神的に幼い。彼女が貴幸を見る眼差しは、いつも頼るようなものだ。 悟志に美幸に加奈子。貴幸はこの三人と話していると、自分が全員の兄になったような気持ちになってしまう。実際は美幸の兄でしかないのだけれど。 「そっか……。実は、いきなり急用とか言って帰っちゃってさ。これ、あいつの鞄なんだけど。明日にでも渡してくれないか」 「え? 明日、私が?」 美幸と悟志は同じクラスだ。だから、彼女に渡してもらうのが一番手っ取り早いと思ったのだけれど、美幸はちょっと困ったような様子を見せた。 その表情に、あ、と思い当たる。そういえば美幸と悟志は近ごろあまり話していないらしい。気恥ずかしくて渡せないのかもしれない。 貴幸はそう思ったのだが、美幸が口にした理由は違っていた。 「明日、二限に宿題のチェックがあるんだよ。悟志くん、もう宿題終わってるの?」 「ええと……。ん。そういえば途中だったな、数学」 「だったら今日持っていってあげないと。お兄ちゃん、行っておいでよ」 「ええ? どうして俺なんだよ」 指名に驚く貴幸だが、美幸は『当然だよ』とでも言うような顔をしている。 「だって、今までお兄ちゃんと一緒にいたのに私が持っていくのって、不自然だもん」 「……そりゃ、そうだけど」 「もしかして……喧嘩でもしたの?」 貴幸が曖昧な反応をしていると、美幸は不安げに言った。 喧嘩じゃない。だけど、会いたくない。今は顔を合わせたくない。 「別にそうじゃないけどさ」 「けど?」 「……いや、いい。俺が行ってくるよ」 理由を美幸に言うわけにはいかない。尋ねられると気まずくて、貴幸はごまかすようにそう言った。 「うん。行ってらっしゃい」 美幸は丁寧にも玄関まで見送ってくれた。 正直言って足取りは重い。たった今あんなことがあったのだから当然だ。 どんな顔をして会ったらいいのか分からない。怒ればいいのだろうか。それとも、何も無かったようにすればいいのか――。 しかし、いくらゆっくり歩いても、そのうちには目的地に着いてしまう。歩き始めて五分足らずで貴幸は悟志の家に着いていた。 (久しぶりだな、ここに来たのも) 悟志ん家のおばさんにもずっと会っていないけれど、元気だろうか。 そんなことを思いつつ、貴幸は呼び鈴を鳴らした。ここまできたら覚悟を決めて渡してしまうしかない。 ピンポーン。 チャイムの音が響くが、さすがにすぐには出てこない。そのまま一分ほど待つと、トン、トン、と誰かが階段を降りる音が聞こえてきた。この時間、家にいるのは悟志だけだろう。 予想通りに扉を開けたのは彼だった。 自分でも道具を忘れていったことには気づいていたのか、彼には出る前から相手が分かっていたようだ。そおっと扉が開き、様子を窺うようにしながら姿を見せる。 「これ。忘れていったぞ」 貴幸はできるだけ何気なく鞄を渡した。しかし。 「……う! うん!」 悟志の方は明らかに動揺している。ドギマギぎくしゃくと答え、ぎこちなく鞄を受け取る。 そんな態度を取られたら貴幸まで気まずい。だけどとにかく荷物は渡したのだ。家に帰ろうと、貴幸は悟志に背を向けた。 「それじゃ」 「――あ! ま、待って、タカちゃん!」 「何だ?」 呼び止められ、振り返ると悟志は微笑んでいた。未だに少し顔を赤らめているくせに、この状況で笑うあたり、意外と内心は余裕なのかもしれない。 「今日はありがと。また教えてね」 「……じゃあな」 今度こそ貴幸は来た道を戻り始めた。肯定も否定もせずに。――教えてって、『どっち』をだよと思いながら。 |