早いもので、悟志が部屋に来るようになってから今日で四回めだ。十月に入り、季節はもうすっかり秋である。
今日もこれまでと同じように、貴幸と悟志は部屋で勉強をしていた。貴幸も自分のノートを広げて宿題を進めている。 「ね、タカちゃん」 勉強を初めて十分ほど経ったころ、シャープペンシルを動かす手を止めてふと悟志が声を掛けてきた。質問だろうかと貴幸も顔を上げる。 「どうした?」 「この前、僕、駅前の喫茶店に行ったんだよ。それでコーヒー頼んだらさ、すっごく! 苦かったんだ」 「……へえ。で?」 予想に反して話の内容は雑談だった。 せっかく勉強のために来ている悟志ではあるけども、そればかりでは続かないのかもしれない。貴幸は悟志の話を聞いてやることにした。 「あのね、すごく苦かったんだよ。ミルクと砂糖入れたけど苦かった」 言いながら味を思い出したのか、悟志はいかにもまずそうな顔をしている。その表情を見て貴幸は笑ってしまった。 「甘党だもんな、悟志は」 「うん。タカちゃんは昔から、苦いのや辛いのも平気だったよね」 「まあな」 悟志の子どもっぽさに口元を緩めつつ貴幸が頷くと、彼はきらきらと瞳を輝かせた。 「じゃあさ! じゃあ、今度、そのお店に一緒に行こうよ。デザートもおいしかったよ!」 「悪いが俺は遠慮しとくよ」 即答。 せっかく誘ってくれた悟志には悪いが、貴幸には悟志と外に出かける気はなかった。 「な、何で?」 悟志は露骨に残念そうだ。ガーンという擬音が背後に見えるようである。 貴幸は少し考えてから、ごく無難な理由を答えることにした。 「金に余裕が無いんだよ。CDとかも買いたいしな」 「そうなんだ……」 不満そうではあるけれど、悟志は渋々納得してまた手を動かし始めた。貴幸も宿題を再開し、首を捻りつつノートに数字を書き並べていく。 しかし。それから、数分と経たないうちに。 「タカちゃん」 再び悟志に呼ばれた。手を止めて彼に答える。 「どうした?」 「タカちゃんって、休みの日どんなことしてる?」 「……部活したり、ゲーセン行ったりテレビ見たり。普通だよ」 またも雑談である。貴幸が答えると悟志は、へえと言って何度も頷いた。そんなに感心するような内容でもないのに。 「ゲーセン? ゲーセン僕も行きたい! 今度、連れてって」 にこにこ笑いながら楽しそうに言う悟志は、完全に勉強の手を止めている。 「こら、悟志! おまえ勉強しに来てるんだろ。そんなサボってちゃ駄目だぞ」 「えー。だって、タカちゃんと話したいんだよ」 注意をしてもどこ吹く風だ。 言葉通り、今日の悟志は貴幸と喋りたくて仕方がないようだった。これではいくら勉強しろと言ってもどうしようもない。貴幸はシャープペンシルを置き、一旦彼と話してやることにした。――丁度こっちにも言いたいことがあったから。 「悟志」 「ん、何? タカちゃん」 真面目な声音で彼を呼ぶ。 しかし悟志は緊張感なく、何だろう何だろう何の話かな、と期待に満ちた瞳で見つめ返してきた。 「おまえ、煙草吸ってる三年に注意したんだって? 大丈夫なのか、そんなことして。目ぇ付けられるぞ」 加奈子にあの話を聞いてから、貴幸は彼が心配でならなかった。 二人が通うのはそこそこの進学校だから、そこまで柄の悪い奴はいない。いたとしても暴力行為などは起こさない。内申点に響くからだ。それでも万一悟志に何かあったら、と思うと黙ってはいられない。 ああ、と悟志は何でもないことのように言った。 「だって僕、生徒会の役員だよ? 上級生だろうと注意するよ。当然でしょ」 「だけど結構、厳しく言ったんだって? 逆切れでもされたらどうするんだよ」 「……誰から聞いたの、それ」 「俺の同級生だよ」 「なら簡単だよ。その先輩、誰か他の人と間違えたんだね」 悟志は笑顔を崩さないままだ。まるで、下らない勘違いだから相手をするまでもないとでも言うかのようだった。 「間違いって……」 「だって僕、そんなことしないもん」 「…………」 昔と同じ濁りのない微笑みが、逆に今は怪しく見える。 貴幸はしげしげと悟志を眺めた。見つめられて照れたように口元を緩める表情は昔と同じだ、けれど。 「悟志。おまえって……変わった?」 つい、思ったままに言ってしまった。その崩れない笑顔に、平然と嘘をつかれた気がして。自分が知っているあの不器用な悟志とは違うような気がして。 問いかけに、意外に悟志はあっさり頷いた。 「そりゃ変わったよ。変わらないわけないじゃない。だって、二年も経ったんだよ? ……タカちゃんが僕を避けるようになってから」 「さと、し……」 その通りである。貴幸と悟志は、つい最近までずっと疎遠になっていた。――貴幸が悟志を避けたから。 声を掛けられれば素っ気なく答えてすぐに背を向け、彼を見かければ引き返し。そんなことを繰り返すうち、兄弟のように近かった二人の距離は開いていった。 それでも『勉強を教えて』と悟志がやって来たとき、表情に全く屈託がなかったものだから、てっきり彼は気にしていないのだと思い込んでいた。だがそんなことはなかったのだ。 「あ。ゴメン」 硬直した貴幸を見て、今のナシ、と悟志は苦笑して首を振った。 そして気を取り直したように明るい声を出し、逆に聞き返してくる。 「タカちゃんは? タカちゃんは、変わった? この二年で」 「俺は、…………」 「――僕ね、もっと知りたいんだ。タカちゃんのこと」 何を言えばいいか分からずにいると、悟志の方から話を進めてくれた。 「昔と変わったのか、同じなのか。何が好きでどんなこと考えてるのか。またいっぱい知りたいから、タカちゃんとすごく話したいんだよ」 はにかむように言って、それから。 「だからタカちゃん。また昔みたいに仲良くしてよ」 恥ずかしい台詞をさらりと口にしてみせる。 悟志はいじらしかった。しかし――貴幸の口から出るのは、冷たい言葉だ。 「……悟志。おまえ、勉強しに来たんだろ。そうじゃないなら帰れよ」 「た、タカちゃん?」 「俺の方には――もう、無いから。おまえと仲良くする気なんて」 「な…………」 悟志は愕然と声を出した。 貴幸自身、酷いことを言っていると思う。それでもはっきり言っておくしかなかった。 今、貴幸の胸の中には、彼と距離を置こうと決意した日の気持ちが蘇ってきていた。悟志と二年前の話なんかしたせいで。じわりじわりと蝕むような思いが沸き上がっていた。 唐突な頼みに心を乱され、つい受けてしまった勉強の話だけれど――近づきすぎたかもしれない。 そのまま部屋には沈黙が広がった。悟志からすれば、向けた好意に悪意を返されたのだから当然である。 (俺から何か、言うべきかな) そう思い貴幸が何事か話そうとしたとき。すん、と鼻をすするような音が聞こえた。 「えっ」 慌てて悟志に向き直る。彼は俯いてしまっていて顔は見えない。しかし。机に置いたその腕や、ただ座っているだけの体がぶるぶる震えているのはよく分かった。そして堪えきれなくなったのか、先ほどよりも大きく、うっ、ぐすっ、と涙声が聞こえた。 「タカ、ちゃああん……」 上を向いた悟志の目元は真っ赤だった。その瞳からは後から後からポロポロと涙が零れている。そして彼がその雫を指で拭うたび、ひっく。そんなしゃくり上げる声が響く。ボロ泣きだった。 「ちょ……おい、悟志」 貴幸は戸惑ってあたふたしてしまう。傷つけてしまうだろうとは思ったが、まさか泣くなんて予想外だ。基本の性格が変わっていないとはいえ、彼はもう高校生なのだし、見た目も相応に成長していた。だからまさか、泣くなんて。 「た、タカちゃん、……何で? 僕のことそこまで嫌いだった?」 鼻をぐすぐす言わせながら悟志が泣く。 怒るなり、ショックを受けるなりして自分と距離を置いてくれればいい――。そう思ってさっきの言葉を放った貴幸だけれど、いざ悟志がこんなに泣くと、胸を槍で貫かれたような罪悪感に襲われてどうしようもない。 「せっかくまたこうして、……ひっく。昔みたいに、話してくれるようになったのに……」 「悟志……」 知らなかった。彼が、いつも浮かべる笑顔の裏にそんな気持ちを隠し持っていたなんて。 勝手に距離を置いて、また話すようになったところでこんなことを言って。……何て酷いことをしているんだろう。 「ごめん」 しばらくして悟志が泣きやんでから、貴幸は言った。 「ごめんな。悟志。こんなことを言いたかったんじゃないんだ……。ただ、おまえが何かを隠してるみたいだから心配だ、って言いたかっただけで」 なのに、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。罪悪感から貴幸は、自分の手をギュッと握りしめた。 悟志はもう一度目元を擦りながら、貴幸に純粋な視線を向ける。 「隠してるみたい……?」 「……ああ。俺には、さっきの悟志の態度がそう見えたんだ。危ないこと、してるんじゃないかって……」 こんなの言い訳にもならない。貴幸自身もそう思っていた。 だが悟志は眉を寄せ、考えるような顔をしてから、鼻声のままで言う。 「タカちゃんは、僕が隠し事してたら心配?」 「……うん」 「じゃあ……僕がそれを言ったら、……聞いてくれる?」 「えっ!」 驚きのままに声が出た。酷いことを言った後でも自分を頼ってくれるのか。悟志が隠していることとは何なのか。そんな気持ちが混じってだ。 悟志は首を傾げ、少し拗ねたようである。 「やっぱり、聞いてくれないんだ……」 「い、いや、そんなことないよ。聞くよ」 「うん……」 すぐに否定したが、悟志は俯いて黙り込んでしまう。まだ完全に涙が止まってはいないのか、何度かぐすりと鼻を鳴らしていた。 (そんなに言いづらいことなのか――? さっきのこともあるし、もしかして、本当に三年にイジメられてるとか言うんじゃあ……) 貴幸の心の中に不安が広がっていく。 悟志は昔からその愛嬌やルックスで周囲に好かれていて、敵を作るタイプではなかった。だけど、いや、だからこそということもある。もし彼に何かあったのならば、何としてでも守ってやらなくては――貴幸は思った。たった今、彼を拒絶したばかりなのに。 しかし。悟志の口から出たのは、予想とは全く違う言葉だった。 「……僕ね。実は、付き合ってる子がいるんだ」 「……は?」 言いづらそうに躊躇うように。さも重大な内容であるかのような口振りだったのに、その内容は何とも平和的というか、拍子抜けしてしまうようなものだった。 (さ、悟志に……彼女?) だが、意外なことには変わらない。あの悟志が。いつも自分の後ろをくっついてきた、あの幼かった悟志が――『付き合ってる子』だって? いつの間にそんなに大人になっていたのだろう。いや、彼だってもう高校生だ。この外見にこの性格だし、そりゃ彼女ぐらいできるだろう。もしかしたら中学の頃から恋人ぐらいいたのかも。 動揺を押し殺し、貴幸はできるだけ平然と頷いた。 「そ、そっか。それは良かったな、悟志」 「ありがとう。クラスの子なんだ。でも、僕、実は悩みがあって」 「悩み?」 「うん……。聞いてくれる? タカちゃん」 見てみれば、顔を上げた悟志は頬をほんのりと染めているように見えた。俯いているのも言いづらそうだったのも、ただ恥ずかしさによるものだったらしい。 「ああ。アドバイスできるかは分からないけど、聞いてやるよ」 頷きながら貴幸は言った。 |