恋の仕方を教えて * 2

「あれえ? 加奈子、負けたんだ」
「う、うん……」
 近くからそんな会話が聞こえてきて、貴幸は椅子に座ったまま、何気なく声のした方を振り返った。視線の先にはクラスの女子が二人。友達同士で話しているらしい。
 先ほどの世界史の授業では、地球儀やら大きな地図やら幾つもの教材が使われた。だが授業が終わると先生は、次に急ぎの用があるから誰か準備室に持っていってくれ、と申し訳なさそうに言い残して帰ってしまった。そこでクラスの誰が片づけるかをジャンケンして決めたのだ。貴幸は早々に勝って席に戻ったのだけれど、その勝負で負けてしまったのだが、教卓前で困ったような顔をしている白井加奈子であるらしい。
「頑張りなよ」
 声を掛けた女子は、そう言って彼女の肩を叩くと離れていく。うん、と加奈子は返事をしたが、その表情は苦い。
「よいしょ」
 そう言って持ち上げるものの、ヨロヨロと数歩動いただけで教材の入った段ボールを下ろしてしまう。無理のないことだった。大きな段ボールの中には、箱の大きさに見合うだけの物が入っている。そして加奈子は見るからに力の無さそうな、大人しく華奢な女の子なのだ。
 ガタリ、と貴幸は席を立ち、彼女に近づいていった。
「白井」
「あ! み、三村くん……」
 名を呼ぶと、加奈子はドキリとした様子で呼び返してくる。こうして近くで見ると、セミロングの黒髪を彩るヘアピンが愛らしい。
「それ、女子にはきついだろ? 持ってってやるよ」
「え、え、でも……」
「いいから任せろって。……わ、結構重いな」
 困惑する加奈子に軽く笑いかけ、貴幸は床に置かれた段ボールを持ち上げた。箱は見た目より重たくて、持ってやることにして良かった、と思う。
 しかし加奈子はおずおずと言った。
「三村くん。それ、持っていくの大変でしょう? 私、自分で運ぶから――」
 いかにも申し訳なさそうな様子である。戸惑って口元に手をやるその仕草が、少しだけ美幸に似ているような気がした。いわゆる『放っておけない』態度だ。
 貴幸は歩き出しながら、わざと素っ気なく答えた。
「いいって。白井は席に戻れよ」
「三村くん……」
 そう言ったのに、加奈子は心配げに半歩後ろをついてくる。けれど貴幸がそのまま教室を出ていくものだから、微笑してぽそりと、
「ありがとう」
 と呟いた。貴幸の位置からは見えなかったけれど、赤い顔で。
 時折『重くない?』などと尋ねられながら貴幸は準備室へ向かって歩いた。準備室は三階の奥にあって、そこに行くまでには一年生の教室を通ることになる。
 そういえば悟志は何組だったっけ、なんて思いながら歩いていると。
「タカちゃーん!」
 丁度後ろから呼び止められた。この呼び方は、考えるまでもなく悟志である。振り向くと彼は何だか嬉しそうに駆け寄ってきた。教室の中から貴幸の姿が見えて、出てきたのだろう。
「おはよう! タカちゃんが三階に来てるなんて珍しいね」
「まあ、普段は特に用も無いからな。今日はこれを置きに来たんだ」
「ふーん。タカちゃん学級委員? 大変だね」
 にこにこ。楽しそうに悟志が尋ねる。すると、貴幸の横にいた加奈子がその質問に答えた。
「――あ、あの。ジャンケンで、私が負けたの。そしたら、三村くんが運んでくれて……」
 彼女の言葉を聞き、悟志は最初きょとんとしていた。しかしすぐにまた、爽やかに笑う。
「あは。タカちゃんらしいや」
「何がだよ」
「昔から親切でしょ。タカちゃん」
「そんなこと無いっての。過大評価だぞ、悟志は」
 この前と言い今日と言い、悟志は自分を良く見過ぎである。貴幸はそう思って否定したのだが、悟志は緩やかに首を振った。
「あるよ。……ほら、例えば。僕が人参食べられないと、食べなきゃ大きくなれないぞとか言いつつ食べてくれたり」
「それって親切って言うのか? ――悟志。今はもう、人参食べられるようになったんだろうな」
「あと、疲れたときにおんぶしてくれたり。転ぶと痛いの飛んでけーってしてくれたり」
 どうやら未だに嫌いらしい。相変わらず子どもみたいな奴だなと、呆れ半分可愛さ半分で貴幸は口を開いた。
「ちゃんと食えるようにならなきゃ駄目だぞ」
「あはは。じゃね、タカちゃん」
 手を振る悟志に頷いて答え、また貴幸と加奈子は歩き出した。そうして数十メートルほど歩いたところで、加奈子は辺りを軽く見回してから口を開いた。
「さっきの人って……相田悟志くん、だよね」
「そうだよ。よく知ってるな」
「女子の中で人気あるから、相田くん」
「へえ」
 それは知っていたけれど、加奈子のような物静かな子にまで話がいっているとは意外だった。貴幸が思っている以上に悟志は人気なのかもしれない。
 加奈子は、重くないか心配するように段ボールを見てから言葉を続けた。
「三村くん、知り合いなの?」
「幼なじみなんだよ。昔からの」
「あ。そんな雰囲気だった」
 いいなあ、なんて言って、加奈子がふふっと笑う。何がいいのかは知らないが――貴幸は、先ほどの言葉が少しだけ気になって、悟志について加奈子に聞いてみた。
「悟志ってそんなに人気あるのか?」
「え、……うん。そうみたい。格好いいし、頭もいいから……」
 やはり悟志は、他人から頭が良く見られているようだ。確かに彼はぱっと見落ち着いた雰囲気で、穏やかな表情もあってそんな風に見えた。しかし実際は、中学で習うような基礎の部分で躓いているような奴なのだ。
「……ふうん」
 あいつは本当は頭が悪いんだよ、なんて言うわけにもいかないので、貴幸は無難に相づちを打った。加奈子は口元に手をやり、あれこれと悟志のことを思い出そうとしているようだ。
「それに生徒会所属だけあって、キリッとしてるところあるよね」
「えっ、『キリッ』……って、あいつが!?」
 意外で聞き返してしまう。いきなり貴幸が大声を出したものだから、加奈子も驚いてびくりと体を震わせた。
「う……うん。わた、私も見たことあるよ。煙草吸ってた三年生に、厳しく注意してたの」
「三年に!?」
 これまた驚きである。
 同級生ならともかく、最上級生。下手をしたら目をつけられてもおかしくはない。あいつ大丈夫なんだろうかと、悟志のことが心配になって表情を引きつらせてしまう。
 けれどそんな貴幸を見て加奈子は小さく笑った。
「大丈夫だよ。ちゃんと言葉は選んでたから。……でも私、びっくりしちゃった。落ち着いた雰囲気の相田くんしか見たことなかったから」
「俺もびっくりだよ」
「そうだよね」
 悟志は優しい奴。そんな印象を持っているのは、何も加奈子だけではない。長年彼と一緒だった貴幸だってそうだ。
 悟志はいつだって甘えんぼだった。そして泣き虫で、頼りなくて。タカちゃあんと言って不安げに貴幸の服を掴んできていたものだ。彼が厳しい声を出すなんて――そんなのは貴幸の記憶にもたった一度しかないほどで、滅多にないことだと思っていた。
 自分の目には、今でも彼はちょっと情けない性格に見えていたけれど、その印象は誤っていたのかもしれない。そんなことを思う。
「それにしても白井、意外と詳しいな。実は悟志のこと好きだったりして?」
「えっ!? わ、私は……」
 軽くからかってみると、見る間に加奈子は真っ赤になった。そして俯いてもじもじと自分の指同士を絡めてしまう。ほんのちょっとした冗談のつもりだったのだけれど、思ったより過剰な反応である。
「冗談だよ、悪い悪い」
 はははと笑い飛ばすと加奈子は、下を向いたままで「う」と声を洩らした。
 そして聞こえるかどうかぐらいの小声で、ぽつりぽつり。
「……あのね。三村くんも結構、人気、あるんだよ」
「ん? 何だ?」
 何と言ったのか分からず聞き返してみたものの、加奈子は照れたように首を振るだけだった。

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