部屋に戻るとすぐに悟志は床にタオルケットを敷き、その中に身を潜らせた。
彼のことだから『一緒に寝よう』とでも言ってくるのではないかと思っていたが、さすがにそれは無いようだ。 「明日で一週間も終わりだね」 「そうだな」 「タカちゃん、土日何するの?」 「ん……。特に予定無いし、適当に出かけようと思ってるよ」 先ほどから悟志は、さっきあったことなど忘れてしまったように声を掛けてくる。この前どこどこに行ったらね、とか、この前クラスでね、とか。 「そっか」 そうして気が済むまで話してから眠ってしまう。 会話がだんだんスローペースになってきて、声も眠たそうだったからもうじきだろうとは思っていた。 昔から悟志は寝付きのいい奴だった。横になるとすぐに寝てしまうのである。 (ったく。昔とは変わったかと思えば、こういうところはそのままなんだな) 早くも悟志は寝息を立てている。電気を消そうと、出来るだけ物音をさせないように貴幸はベッドから立ち上がった。 電源コードを引っ張る前に何気なく悟志の顔を見てみる。悟志は、気持ちよさそうにすうすうと眠っていた。見ていると癒されるような寝顔である。 「悟志」 小さく呼びかけてみるも返事は無い。 貴幸は半ば無意識のうちに、彼の髪に触れていた。 ――柔らかい。しばらく前に風呂に入ったばかりの髪は、まだ濡れているけれど、早くもさらりと指の間を抜けていった。 こうして改めて見てみると、悟志は本当に綺麗な顔をした奴だ。今は少年だからまだ線の細さが残っているけれど、大人になったら、きっとかなり格好良くなるのだろう。 「悟志……」 先ほどよりも更に小さく、誰にも聞こえないぐらいの声で貴幸は囁いた。 そのまま、彼を起こさないようにそうっと彼の頬に触れる。 「んん……」 悟志は可愛い声を出し、ほんの少しだけ身じろいだ。寝たふりなどではなさそうだ。 貴幸は多分、今夜は寝られない。電気を落とした中で一人悶々とすることになるだろう。悟志の寝息やちょっとした物音や、今日知った悟志のこと、これまでの悟志のことをあれこれ考えて。 これ以上触れては彼が起きてしまうかもしれない。貴幸は大人しく彼から離れ、部屋の電気を消した。そして自分もベッドの中に潜り込む。 瞳を閉じると、自然と悟志のことが脳裏に浮かんできた。 ずっと離れていたのに、近ごろ悟志とはまたすっかり親しくなってしまった。もう仲良くする気なんてなかったのに。 (恋人って男……だったのか) 今日は色々なことがあった。悟志が同級生といるところを見て、いきなり泊まりに来ることになって、あんなことまでしてしまって。 けれども一番衝撃を受けたのは彼の恋人の性別だ。 (だから、男相手の練習がしたかったんだな) 考えてみればしっくりくる話だった。 いくら隠したところで、男女の恋人ならどうしても何らかのきっかけからクラスで噂になってしまうだろう。なのに美幸ですら知らなかった。貴幸は頑張って隠してるのかな、ぐらいに思っていたが違ったのだ。 道理で、これまで貴幸相手に『練習』をしていたわけである。 悟志は昔から天然気味で、ぽけぽけしていて可愛らしかったけれど、さすがに男相手にキスは無いだろうと思っていた。同性とキスの練習なんてぶっ飛びすぎている。 でも、彼の恋人が男だったのならば納得だ。貴幸は今でもそんなの、ぶっつけ本番でやってしまって、もし失敗してもそれすら思い出にしてしまえばいいと思う。だけど恋人が男だと言うのなら、悟志の言うことがどうしても理解できないというわけでもない。男同士で触れ合うのがどんな感じなのか気になってしまったのだろう。 (今更だけどただの練習台なんだよな、俺) 改めて考えてみたら、胸がずきりと痛んだ。 これまで散々、練習という言葉は繰り返されていた。わざとらしいぐらいに。理由は恋人とそういう行為をするためだって、何度も聞いていた、はずだった。 なのに恋人が同性と聞いてあまりに驚いて、基本的なところにまで思考が戻っていた。 (馬鹿だな。俺って) 分かっていたことにショックを受けている自分のことがとても滑稽なように、貴幸には思えた。 悟志は同性愛者だったのだろうか? 長年一緒にいた貴幸にも、分からない。二年前の思春期の頃に離れて――いや、一方的に彼を突き放していたものだから。 ――引いた……? 問いかけてきたときの悟志の言葉を思い出す。 それは勿論、とても驚いた。今でもこうして、あれこれと考えてしまうほどに。 だけど引くはずなんてない。それでも悟志の恋人が男だというのは衝撃だった。複雑な思いだった。 悟志とはずっと距離を置いていた。今だって、貴幸から距離を縮めようとしているとはとても言えない仲である。だけど悟志のキスを拒めない。悟志が悲しめば放っておけなくて、頼まれたら何だって聞いてしまう。 貴幸は暗闇の中で、悟志のいるあたりの目を向けた。真っ暗で彼の姿が見えるはずもない。それでも、あそこに悟志がいるはずだと思うと胸が騒いで落ち着かない。 (悟志) 心の中でだけ呼んでみる。それだけで切ない気持ちが広がっていく。 貴幸は悟志のことが――好きだった。二年前のあの日に気づいてから今も変わらず、ずっと。 あの頃の悟志は今よりもあどけなくて、背だってまだ低かった。タカちゃん、タカちゃんと甘えてくる悟志のことを、貴幸はいつだって大切に思っていた。 話していると楽しくて、悟志が笑えば嬉しくて。それはずっと、弟に対する気持ちのようなものだと思っていた。 中学生のころ悟志は貴幸にべったりで、登下校も休日も一緒に過ごしていた。思春期の美幸は恥ずかしがって少し距離を取ってきていたから、二人でいることがとても多かった。 だらだらと下らない話をしながら悟志と過ごす時間は、貴幸にとって宝物だった。会えなかった一日は、退屈な日。姿を見られたらそれだけで幸せで、悟志のことを考えるとき、貴幸の胸は暖かくなった。 今にして思えば気づかずにいた時期が一番幸せだったのだ。まるで日だまりにいるような、やすらぐほどに穏やかな恋心だった。 ――タカちゃん。 幸せそうに、とろけるような優しい声で悟志が貴幸を呼ぶ。貴幸のすぐ隣で。 ――どうした? 聞き返すと、悟志は本当に嬉しそうにはにかんで首を振る。春風を受けたように、髪がさらさらと緩やかに揺れる。そして噛み締めるように幸せそうに、彼はこう言うのだ。 ――んーん、何でもない。 ――何だよそれ。 柔らかく貴幸も笑った。意味が分からなくて。そして、ただ悟志といるだけで、嬉しくて。 あの、胸を疼かせるような心地が恋だなんて微塵も思いもしなかった。いつから彼を思う気持ちにくすぐったいような熱が混じりだしたのだろう。いつまでも、今でも気づかずにいられれば良かったのに。 そうすれば今だって、彼が差し出すその手を掴んで、彼が顔をほころばせるのに微笑み返し、幼い日と変わらず側に居られたのに。 中学最後の年だったあのときに、気づいてしまいさえしなければ。 |