「タカちゃん! ごめんね、待った?」
息を切らせて悟志が駆け寄ってくる。その一生懸命な姿に、貴幸は表情を和ませた。 二人がいるのは玄関を少し出たところ。下校時の待ち合わせはいつもここだった。 「そんなに急ぐなって、毎回毎回」 「だって……」 あの小さかった悟志も今では中学二年生。とはいえ未だに制服の裾を少しだぼつかせ、いくらか下の目線から貴幸を見上げている。まだまだ成長期と言ったところである。 普通、中学二年生にもなれば周囲に反発するものなのに、悟志は昔から全く変わらなず甘えん坊だ。今だって、学年が違えば下校の時間が多少違うのは当たり前なのに、自分が遅れたことに対してまるで叱られた子犬のような目をして貴幸を見ている。 「おまえ、そんなにベッタリで、俺が卒業したあとやっていけるのか?」 尋ねてみると、悟志は何とも悲しそうに首を振った。 「無理」 本心から言っているような声に、貴幸は笑ってしまった。ううう、と恥ずかしそうに悟志が唇を軽く噛む。 ――季節は秋。貴幸が中学校を卒業するまで、残すところあと半年足らずである。部活も夏に引退済みで、部長まで務めた貴幸としては寂しさが強いのだが、悟志は一緒に帰れる日が増えたことを嬉しく感じているらしい。 「って、あれ?」 「ん?」 いきなり悟志が自分の両手を見比べ始めた。そして、何度か辺りを見回してからしょんぼりと。 「給食袋、忘れちゃったみたい……」 「ええ! ドジだなあー」 「ごめん、取ってくるね! 急ぐから待ってて!」 言いながら悟志は校舎へ引き返していった。 今日は金曜日だから、給食係だった悟志は服を持ち帰って洗濯しなくてはいけないのである。忘れるなよと今朝も言ってやったのに、まったくぼんやりした奴である。 (まあ、そのポケッとしたところが悟志らしくもあるんだけど) そう思うと怒る気も沸いてこない。貴幸は近くの壁に寄りかかり、悟志が戻ってくるのを待った。 甘えた口調やあどけない表情のせいか、悟志は年齢以上に幼く見える。可愛らしい雰囲気もあって、子どもの頃はそれこそ女の子と間違われることもあった。さすがに今はもうそんなことはないが。 けれど小さな背丈に柔らかい髪、そして綺麗に澄んだ瞳を見て貴幸が思うことは、昔から変わらない。可愛くて守ってやりたくて、一緒にいればそれだけで楽しくて。本当に大事な幼なじみだ。 「うーす、三村」 「おう」 待つ間に、いくらかの学友たちが玄関をくぐっていった。 しかし肝心の悟志がなかなかやって来ない。自分の机をちょっと見てくるだけのはずなのに、何故こんなに掛かっているのだろう。 気がつけば辺りから生徒はいなくなっていた。六時間目が終わってしばらく経ったから、既に皆、家に帰るか部活に行くかしているのだろう。 まだかなと下駄箱の方を覗いてみたが、すぐに誰かが来そうな気配はない。 ――ごっ、ごめん、タカちゃん! すっかり遅くなっちゃって……! そんなことを言って、転げそうな勢いで駆け寄ってくる悟志の姿が目に浮かぶようである。きっと大急ぎで申し訳なさそうに走ってくるだろう。 あまりにしっくりくる想像に、貴幸は一人で笑いそうになった。 (そーだ。バスケ部でもちょっと見てくるか) 後輩たちは元気だろうかと、ふと気になった。それに、体育館なら戻ってきた悟志にも、貴幸のいる場所の想像がつくはずである。時間もありそうなので貴幸は玄関を出て校舎を折り返した。すぐに、木々の奥に外観が見えてくる。 ほんの数ヶ月前まで毎日のように通っていた体育館を見ると、少しだけ切なくなる。もうあの場所に戻ることは無いのだなと。勿論、授業のときには行くし、休み時間にもそこで同級生や後輩と遊んだりはしているのだが、それでも甘酸っぱい悲しさを覚えるのである。 (あれ?) 歩いていったところで気に掛かるものが目に入り、貴幸は体育館の逆側に目を向けた。校舎の奥の方だ。 そこには同学年の男子が立っていた。柄が悪く攻撃的な、古っぽい言い方をするならばいわゆる『不良』たちである。別に放課後にどこにいようが彼らの自由なのだが、気になったのはその表情である。 (……何してんだろ) にやにやと口に何とも嫌らしい笑みを浮かべ、顎を引いて凄むような目つきで『何か』を見ている。手はズボンのポケットへ突っ込み、時折一、二歩ほど歩みを進め、短く口を開いてはまた離れる。その動きは不自然で、遠目にも仲間との談笑ではないことが見て取れた。 貴幸は訝しみつつ近づいていった。 と言っても別に、彼らが何をしているのか確かめようとか、そんな深い考えがあったのではない。ただ体育館へ行くついでに何となく見ただけ、のはずだった。 「……だし、……へへっ! …………の……」 (なっ!? こ、この声って……!) ぼそぼそと会話が洩れ聞こえてくるにつれ、貴幸は頭からザアッと血の気が引いていくのを感じた。 場にいるのはやはり一人ではなかった。何人もの男が嘲笑に近い声を上げていた。 しかし、聞こえてくるのは彼らの会話だけではない。 「っく、……ひっ……く、え、……っう、う、うう……っ」 悲鳴のように高い、震えきった規則性のない声音。それはどう聞いても女生徒の泣き声だった。とても言葉など話せぬように引きつった喘ぎを零し、同学年の男たちが何事か話すごとに悲痛にしゃくり上げる。 貴幸は我を忘れて駆けだした。いくら何でも、女子を校舎裏に連れ込んで泣かせているのなど見過ごせるわけがない。しかも――しかも、この声は、聞き間違えるわけがない。十四年も聞いてきたものだ。 (美幸っ!) 何が起きているのか、相手が何人いるのか分からない状況である。もしかしたらこの場合に正しいのは教員を呼ぶことで、それが一番良い結果をもたらしたのかもしれない。だが何があったのか分からないからこそ、そんな悠長な行動などしていられなかった。 「美幸!?」 「あ、っひ、うっ……」 居たのはやはり美幸だった。彼女は貴幸の姿を認めるなり嗚咽を強くし、今にも息が切れるのではないかというほど、喉を鳴らすように強く泣き始めた。 そして、その格好を見て貴幸は目を見開いた。 「み、美幸……ッ!」 彼女はまとめた腕を壁に押さえつけられ、そしてシャツのボタンをほとんど外されていた。ブレザーはとっくに地面へ落ちている。シャツの下には日ごろ決して見えるはずのない下着が覗き、僅かに膨らんだ乳房がその隙間から見えている。壁に彼女を押しつけている男は、彼らのリーダー格だった。 美幸にどんな暴力が奮われようとしているのか、あまりに明らかな光景だった。 「やっべ、誰か来た」 「おー、三村じゃん。奇遇だな。兄妹揃うなんて」 怒りに拳を奮わせる貴幸の前で、男たちが下卑た笑いを浮かべたまま話し出す。全部で四人、それが彼らの人数だった。品の悪い男がそんなに揃って、美幸を――。激しい憤りに頭が煮えたぎっていく。 「お、……」 美幸は相変わらず泣きながら貴幸を見ていた。お兄ちゃん、と呼ぼうとしたのだろうが、言葉は涙に巻き込まれて一瞬で消える。 彼女は昔から相当に控えめで、恐がりとも引っ込み思案とも言える性格だ。貴幸と悟志以外の男子と話すときには緊張しきったように鞄を抱き、おどおどと小さく話す、そんな姿しか見たことがない。 それだけ気の弱い美幸が上級生の男四人に連れ込まれ、にやつきながら服を脱がされ、押さえつけられ。どれだけの恐怖を感じていることか。見ただけでも彼女が身をガタガタと震わせているのが分かった。 「てめぇら、美幸に何してんだよ! 離せ!」 相手は良い噂を聞かない同級生たちだ。怖くなかったと言えば嘘になるが、美幸のそんな姿を見てしまえばとても黙ってなどいられるはずがなく、貴幸は思いきり彼らに怒鳴りつけた。一番近くにいた男の胸ぐらを掴み、殴りかからんばかりの勢いで相手を睨み付ける。 日々を平和に過ごしている貴幸にとっては、想像したこともない非日常だった。まさか校舎の裏でこんなことが起きているなんて。衝撃に支配されそうになりつつも、ただ美幸のために勇気を振り絞る。 「ついてねーな。おい、どうする?」 「ちぇ。せっかく楽しむチャンスだったのに」 男たちは全く悪びれた様子もなく話している。軽薄さに腹が立ち、情動のまま彼らに拳をぶつけたくなる。 しかし何と言っても相手の人数が問題だった。まさか四人もの同級生を相手に勝てるはずがない。返り討ちにされて気絶でもさせられたら、その後美幸がどんな目に遭うことか。 妹がすぐ側で震えて泣いているというのに、ただ見ていることしかできない――。胸を侵す憤りを押し込め、貴幸は強く、下ろした方の拳を握りしめた。 「来るならあと三十分後にしろってもんだよなー」 「ひゃはは、それじゃ真っ最中じゃん!」 「気持ち悪いこと言ってないで、早く美幸を離せよ……!」 さすがに彼らにも、こうして見つかってからも美幸に乱暴を働く気は無いようだった。つまんねーと口々に不満を零しながらも、美幸にそれ以上触れようとはしていない。それもそのはずである。大人しい美幸だけならばいくらでも口を塞ぐことができるが、貴幸もいるとなると厄介だ。妙なことをすれば、その後確実に教師に自分たちの蛮行を告げられてしまうのだから。 「あーあ。最悪。ぜってぇチクられるよな、このこと」 「どっちみちチクられるなら、やっちまった方が得じゃねえ?」 「同感」 「でもリスクでかそうだぜ?」 男たちが少し口を開くたび、美幸は可哀想なぐらいに体をびくびくと反応させ、堪え切れず嗚咽した。 もうこれ以上、そんな姿は見ていられなかった。 「頼むから、とにかく美幸を離してくれ……」 貴幸は懇願した。男たちは顔を見合わせて笑う。 「どーしよっかなあ。三村の頼みなんか、聞いてやりたくねえよなあ。前から気に入らなかったし」 「そうそう。レギュラーだの何だの、うざってえ」 「人生順調デスーってか」 あからさまな嫉妬である。笑いながらも彼らの口調には苛立ちが混じっていた。 ふと、その内の一人が言った。 「そうだ。じゃあ、美幸ちゃん離してやる代わりに三村ボコろうぜ!」 (俺を……!?) 唐突な提案だった。途端に場にどっと大きな笑い声が響く。 「お! いいな、それ。どうせこのまま帰したってチクられるんだろうし」 「結局お説教されるなら、気の済むだけ殴っとこうってことか」 四人は爆笑し始めた。一瞬にして彼らの中では、これからすることが決まったらしい。 それまで動けず怯えていた美幸は、計画を聞くなり身をよじり、悲痛な声で言った。 「や、っやめ、て……」 涙混じりで聞き取りにくい、もしかしたら先ほどまで以上に震えた言葉。気の小さな美幸にとって、それを口にするのはさぞかし怖かったことだろう。 しかし貴幸の考えていることは彼女とは違っていた。 (そっちの方が、よっぽどマシだ) 言うまでもないけれど、殴られるのなんて嫌に決まっている。きっと酷いように殴られるだろう。さっさと気絶してあっさり終わり、なんてことにはなるはずがない。相手が加減を間違えたらとんでもないことになる。ちらっと想像しただけで恐ろしく、足下が揺らぎそうになる。 だが、美幸に妙なことをされるぐらいなら、自分が殴られる方がよほどいい。 「三村ぁ。おまえはどっちがいいんだよ? 可愛い妹がヤられんのと、自分が血だるまになるの」 「……分かった。とにかく先に、美幸を離せよ」 睨み付けながら貴幸が答えると、美幸は悲鳴を上げた。 「お兄ちゃん……!」 「妹思いで優しいねえ。そういうところがムカつくんだよ!」 条件を呑んだら呑んだで彼らは怒り出した。それでも美幸を押さえていた腕が離れたため、貴幸はひとまずホッとした。どさりと、倒れるように美幸がその場にへたり込む。 「美幸。おまえは帰ってろ、大丈夫だから」 自分が殴られているところを美幸が見たら、きっと心に深い傷を負うだろう。心配になり言ったのだが、美幸は乱れた服も直せず呆然としている。今までに経験したことのない暴力的な状況に、体も心も追いついていないのである。 指をポキポキと鳴らし、にやつきながら男たちが近づいてくる。まるで漫画か何かのような状況で、ここに至っても今ひとつ現実感が無かった。それでも体の反応だけは正直で、額にじとりと嫌な汗が浮かぶ。僅かな風すら感じられるほど、全身の皮膚感覚が鋭敏になったようだ。 貴幸はじりじりと後ずさり、少しずつ場所を変えていく。それを見て男たちはギャハハと下品な笑い声を立てた。 「逃げるなよ、オニイチャン!」 「…………」 貴幸は無言で彼らを見上げた。 この期に及んで恐怖で身を引いたわけではない。ただ、美幸と彼らの距離を取ったのだ。自分が殴られる姿など見せないために。彼女が動けるようになったとき、すぐに逃げられるようにと。 |