それでもいざ家の前についてみると、途端に鼓動が大きく跳ね出した。
聞いてみてどうなるだろう。タカちゃんには関係ないよと、冷たい目で見られるのではないか。今でも彼は怒っているのではないか。果たして、自分が聞いたところで教えてくれるのかどうか。 不安ばかりが胸に広がり、けれど聞かずには帰れないと、貴幸は覚悟を決めた。 インターホンに手を伸ばし、強めに力を込めて確かに押す。少しして、タッタッと駆け寄ってくるような音が扉の内側から聞こえてきた。いよいよ呑まれそうなほどに緊張が強くなる。走ってきたばかりでは息も乱れていて、呼吸するたびに喉が変に引きつってしまいそうになった。 扉が開く。 「はーい、……あっ」 貴幸は、悟志がどんな顔をしているか不安になりながら顔を上げた。しかし。 「タカちゃん!」 目の前の悟志は、予想したようなものとは全く違った表情を浮かべていた。 「どうしたの、急に? ――あ、いきなり行けないって言ってごめんね、今日! ていうか息切れてない? どうしたの?」 悟志は大きく目を開き、何とも嬉しそうに口元をにへりと歪ませていた。瞳はきらきらと輝き声も弾み、見るからに嬉しそうな様子だ。 (な、何だったんだ? 俺が緊張したのは……) がくりと脱力しかける貴幸だった。普通すぎる。あまりにも。 だが、そのおかげで心臓も落ち着いてきてくれた。全てを聞くしかない。 何と切り出すか逡巡した後に、貴幸は決意を込めてこう言った。 「悟志。聞きたいことがあって来たんだ」 「え?」 低い声音で口を開いた貴幸に、悟志はぽかんとして気の抜けた顔を見せた。だが彼の視線も少しずつ鋭くなっていく。 「それって、長い話?」 逆に悟志の方が質問をしてきたとき、既に彼は貴幸以上に強い眼差しをしていた。 目を逸らさずにコクリと貴幸は頷く。すると悟志は、黙り込んだ後に扉を大きく開いた。 「だったら、上がってもらった方がいいかもね」 「ああ。……そうさせてもらえると、助かるよ」 そうして玄関に足を踏み入れた途端に、貴幸はドキリとして声を上げた。 「悟志、これ……!」 玄関から繋がる廊下には、いくつかの段ボールが積まれていた。大きく丈夫そうな箱である。 (もしかしてこれが、美幸が言ってた引っ越し用の段ボールなのか?) 先ほど貴幸が来たときには、既に美幸が言っていたような引っ越しトラックは家の前から消えていた。窓から様子を窺うような余裕もなくて、全く状況が分からないままだったのだ。なのに突然に見つけてしまった。嫌な想像を裏付けるような証拠を。 平然として悟志は答えた。 「それ、荷物を入れるんだよ」 淡々とした言い方だった。 (やっぱり――) 絶望に心が軋む。越してしまうのだ、彼は。ここから。貴幸の近くから。 悟志がそのまま立ち止まらずに階段を昇り始めてしまったので、何も聞けないまま貴幸も彼についていった。 「居間は散らかってるから、僕の部屋で話そう」 「……分かった」 返事はどうしても覇気が無くなった。 程なくして悟志の部屋の前に着く。彼の部屋に入るのは、本当に久しぶりだ。 部屋の扉が悟志の手によって開かれる。それと同時に。ふと、突然に。 「今さ、段ボールの中身を出すから下の部屋は散らかってるんだよ」 「え?」 世間話のように軽い語り口で、悟志が言った。 「中身を……出す? 何だそれ?」 「言ったままだよ。あの箱から椅子とか出さなきゃいけなくて」 「ん?」 「え?」 ノブに手を掛けたまま、きょとんとした顔で悟志が振り返る。貴幸も同じように、呆然として固まってしまった。 (引っ越し用の段ボールに、荷物を詰めるんじゃなくて『出す』――? それって、何だ?) 何だか少し、思っていたのとは違うような気がする。 妙なざわめきを感じながら貴幸は疑問を口にした。 「出すってどうしてだ? 逆に、しまわなくちゃいけないんじゃ」 「何それ? どうして?」 「だってお前、引っ越すんじゃ」 「――えええっ!?」 悟志は思いきり貴幸に振り返り、心から驚愕したように口をポカンと開いて大声を出した。その勢いに貴幸の方が驚いてしまう。 信じられないと言った風に悟志は矢継ぎ早に聞いてきた。 「越すって何、僕が? 何それ? どうしてそんな話に? 誰から聞いたの?」 「えっ、いや……」 彼は大きく混乱しているようだが、貴幸だってそれは同じだ。状況が掴めない。違う。やはり、何かが。 落ち着くために一度深呼吸してから貴幸は言った。 「えーと、美幸が言ってたんだよ。さっきここの前を通ったとき、引っ越し用の車が来てて、お前も越す準備をしてたって……」 「えー!?」 「それで俺は、驚いて理由を聞きに来たんだ、けど」 衝撃を受けたように、あんぐりと。悟志は瞳を『びっくり』の色に染めていた。 それでも言い終わった後に貴幸がチラリと彼を見ると、正気に戻ったようで手を顔の前でブンブンと振り出す。 「違うよ、それは。ええと、何から言えばいいのか……」 未だ不安ではありながらも、貴幸の心から早くも不安が消えていく。引っ越すというのは、何かの間違いだったのだろうか――。 「あのさ、母さん、結婚するって言ったでしょ? それで僕の父親、慰謝料代わりに奥さんに家を取られたらしくって」 「取られた? 家を!?」 「うん、そう。で、住むところがないから、一旦ここの家に来るかもしれないんだ。まだ未定なんだけど」 悟志は何でもないことのように言っているが、なかなかとんでもない話である。貴幸は続きを促した。 「それで?」 「えっと、だから、もしかしたらここに少し住んでから母さんと一緒にどこか行くかもしれないし、ずっとここにいるのかもしれないし、一人でよそにアパートを見つけるのかもしれないけど……。とにかく、それを決めるまでの間だけでも、この家に泊まることになりそうなんだよ。だから椅子とか布団とか、ついでに新しいテレビとかが送られてきたんだ。あの段ボールの中身はそれ」 「なっ……」 さらさらと説明する悟志の言葉を聞けば聞くほど、表情がどんどん強ばっていく。 ――何てことだ。 (じゃあ、要するに、ここへ来た理由は勘違い……だったのか!?) 恥ずかしい。あれだけ慌てていた自分のことが。 「そもそも僕が越すんだったら、荷造り中に引っ越し会社なんか呼ばないよ。準備できてからにする」 「……ごもっともだ」 「早とちりだなー、タカちゃんもユキちゃんも」 そう言って悟志は、あははと脳天気に笑った。 言われてみれば本当にその通りだ。冷静に考えれば分かって然るべきことだった。 (……は。恥ずかしいぞ、これ!) 帰ったら美幸に何か言ってやろう。心の中で誓う貴幸だった。 「さっき届いたんだけど、母さんは仕事があるから僕が色々と開けてたんだよ。だから今日は行けなかったんだ。連絡が当日になっちゃってごめん」 「いや、いいよ」 分かってしまえば真相は何ともあっさりしていた。誤解が解けて安心したのか、悟志はもう柔らかい表情でにこにこと笑っている。 「なーんだ、聞きたいことってそれだったんだ」 「…………」 確かに、それ『も』ある。だがそれ以外のこともある。まだ、これだけでは帰れない。 貴幸は再び真面目な声で言った。 「いや。他にもあるよ」 せっかくここまで来たのだ。聞くならば今しかないとすら思えた。 「分かった。だったら、入って」 悟志は明るい声で言うと扉を開けた。だがその声音は作ったものだ。笑みは口元以外からは消えていた。彼にもきっと分かっているのだ。ここへ来たときの貴幸の深刻な表情、その起因するところがただ一つのことではないと。前回気まずい別れ方をした、あのことだって二人とも決して忘れたわけではない。それを考えれば、今の悟志の明るさは不自然だった。 「お邪魔します」 久々に踏み入った悟志の部屋はすっきりとしていた。余計な物はあまりなく、本棚には教科書やCDの他に、厚い小説などが並んでいる。ここでいつも彼が過ごしているのだと思うと、こんな状況だというのに貴幸はどきどきしかけてしまった。 そんな考えを振り払い、悟志に続いて部屋の中央にある机につく。 「それで?」 どことなく投げやりな調子で悟志は言った。いざこうした状況になってみると、切り出しづらい。貴幸は言葉を選びつつ、ゆっくりと話し始めた。 「悟志、聞いたんだ。……お前、俺には勉強できないって言ってたけど、本当はそうじゃないって」 「へえ」 冷ややかな響きを伴った返事だった。なぜ、さっきまで明るく話していた彼がそのような言い方をするのかは分からないが、とにかく今は最後まで言うしかない。 「美幸にも聞いたよ。そしたら、……俺と、……また話したくて――そのためにって」 口にしながら、声が震えた。考えながら言ううちに改めて気づいたのだ。自分は何と、悟志に可哀想なことをしてしまったのだろうかと。 「どうしてだ? 悟志、何でそこまでして……。それに何で、この前あんなに怒ってたんだ。なのに今はいつも通りで、俺、分からないよ」 全てを言い終わって貴幸は口を結んだ。悟志は、じっと黙って何事か考えているようで、すぐには何も答えてくれない。その瞳は内心に炎を揺らがすようで、落ち着いているのにどこか激情を隠し持っているようだった。 しばらく答えを待っていたのだが、悟志は一言も口にしてくれなかった。頬杖をついて、僅かに気怠そうに貴幸を見て。答えを考えているというよりも、既に何を言うかは決まっているものの話す気がないというような態度だった。ついさっきまではいつも通りに話してくれていたのに。 「悟志」 呼びかけても悟志は全く反応しない。 「悟志?」 もう一度、声を掛ける。黙ったまま悟志は視線を上げた。それから更に少しの間黙って、ついに呟く。 「本当に分からない?」 「分からないさ、分かるわけないだろ」 確かに自分はずっと昔から悟志と一緒だった。それでもこれだけ身勝手なことをして、なのに悟志が今でも追ってくれる理由が分からない。嘘をついてまで、毎週毎週演技をしてまで貴幸と過ごしたがる理由が。そしてこの前の怒りの理由も、貴幸には全く分からない。 「好きだからだよ」 「な、――え?」 ふと、信じられない言葉が聞こえた気がして貴幸は聞き返した。 「タカちゃん、鈍すぎ。僕がタカちゃんを好きだから。それ以外にないよ」 「す、好き? ……それって」 「友達としてとか、そんな誤解は無しだよ」 ズガンと思い切り頭を殴られたような衝撃だった。 |