恋の仕方を教えて * 20

 朝からちらちらと視線を感じるような気がした。振り返ってみれば、その先には加奈子。
「あっ」
 視線が重なると加奈子は弾かれたように顔を背け、肩に掛かった髪をぎこちなくいじり出す。
(何だろ)
 クラスメイトと並んで教室を出ながら、そんなことを思う。今朝から加奈子はこうなのである。貴幸が近くへ行くと目を逸らすのに、ふと気がつくとまたぼんやりとこちらを見ている。そしてその後、友人に何事かを囃し立てられ、困ったように照れ笑いをしているのだ。
(……分からないなー、女子の考えることは)
 そんな程度に思い、貴幸は友人と雑談しながら廊下を歩いた。
 今は昼休みである。天気がいいから屋上で食べようという話になり、貴幸たちは出てきたのである。
「じゃ、パン買ってくるわ」
「ああ。先行ってるよ」
 購買部に向かう友人たちと階段で一旦別れ、貴幸は一人で上へ向かった。三階には一年生の教室が並んでいる。屋上はこの上だ。
 貴幸が更に階段を昇ろうとしたとき、丁度前の方から見覚えのある生徒が近づいてきた。
「あ」
「お。ちわーっス」
 彼は彼でこちらを覚えていたらしく、貴幸に気がつくなりペコリと頭を下げてくる。
 彼は確か悟志の同級生だ。この前何人かの同級生と悟志がいるのを見かけたときに、この男子生徒もいたはずである。
 せっかくなので貴幸は階段から少し離れて彼に近づいた。
「ども、久しぶり」
「奇遇スね。相田に用ですか?」
「いや、屋上に行こうと思って来たんだ」
「ふーん」
 彼の方も友好的な態度で、にこにこと素直である。
「それはそうと、そろそろテスト近いスよね。三村先輩の時どんな問題出たか、教えてくださいよ」
「いきなりだな。悪いけど、去年のテストがどうだったかなんて忘れたよ」
 いきなりの率直な質問に、貴幸は小さく声を立てて笑ってしまった。
「えー、そうなんスか。ちぇ、残念だな」
「自力で頑張れよ」
 貴幸がそう言うと、下級生は冗談っぽく口を尖らせる。
「いいっスよねー。先輩も相田も、テスト余裕だもんなあ」
「そんなことないよ」
 確かに貴幸の成績は悪い方ではない。けれども余裕と言えるほど良いわけでもない。悟志だって意外と初歩で躓いていたりするのだ。とんだ誤解だと、貴幸は苦笑いしてパタパタと手を振った。
 だが下級生は納得してくれない。
「またまた。謙虚っスね、先輩」
「いや本当に」
「だって相田に勉強教えてるじゃないですかー」
「それは俺にも分かる範囲だからだよ」
「つまり頭いいってことっしょ、それ」
 嫌みではなく本心から感心しているように彼は言う。凄いスよねー、と爽やかに笑って。
 何だろう、話が通じない。物わかりの悪そうな性格には見えないのだが。
「違うよ、悟志が分からないのって意外と、基礎的な部分だからさ」
 口にした途端だった。
「え!?」
 目の前の後輩は、ポカンと驚いたような顔をした。
(あ、やっぱり悟志って周りからも頭良く見られてるのか。――って、クラスメイトでもそんな誤解、するか……?)
 貴幸が思ったときだった。笑い飛ばしながら後輩がパタパタと手を振り出す。そして意外なことを言うのだった。
「いやいや、何言ってんスか。相田って頭いいっスよ」
「……え?」
「それこそ学年トップレベル……っていうかトップですから」
「――は?」
 意味が分からず、貴幸は怪訝に眉を顰めてしまった。
 学年トップって、悟志が? ……何度も基礎的なところで引っかかっていた、あの彼が? そんなはずはない。だが、悟志の同級生も訝しげに首を捻っていて、とても嘘を言っているような態度には見えなかった。
 動揺しながらも貴幸は質問を口にする。
「それってどういうことだ? 悟志、俺が勉強教えてるときには、そういう風には見えないんだけど」
「いや、マジで頭いいスよ相田は。いつもサラサラ解いちゃってますもん。応用とかでも」
「…………」
 何だろうそれは。どういうことだろうか。貴幸は黙り込んで少しの間考え込んだ。何秒か経って、ふと思いつく。
「あ、それって国語とか理科とか、そういう教科じゃないか?」
 悟志が苦手だと言うのは数学と英語である。それ以外の教科は良い成績だったのかもしれない。
 そう思ったのだが、悟志の同級生は首を振って否定した。
「違いますよ。全教科スよ、相田が得意なのは。国語でも数学でも、物理でも英語でも、何でも」
 とても信じられない言葉だった。
(学年トップ……全教科、得意? それってどういうことだ?)
 だって悟志は言っていたはずである。高校に入ってから成績が落ちちゃって、教えて欲しいと。実際に教科書を開いて、最近の授業で分からなかったところとか解けなかった宿題とかについて聞いてきてもいた。とてもじゃないが、学年トップとは思い難い様子だった。
「……んー、よく分からないっスけど、とにかくテスト頑張りましょうね」
 悟志の友人は顔に疑問符を浮かべたあと、ニカッと笑って話を戻した。彼からしても貴幸と話が噛み合わないのは不思議であるが、わざわざ真実を確かめるほどのことでもないのである。
「それじゃ」
「あ、……ああ。またな」
 手を上げて後輩が歩き出したので、貴幸も笑みを作って答えた。けれど彼の背が遠ざかって行くに連れて表情が強ばっていく。
 頭の中ではたった今の話、その内容が意味するところのことばかりを考えていた。
 今、彼が言っていたことは何だろう。悟志の学習の様子は教え始めた頃から変わっていないっていうのに。だけど確かに悟志は中学時代はとても頭が良かった。それに、先ほどの後輩が悟志の成績について嘘をついたところで、得することなど無いはずである。
(……それじゃあ、何なんだ? 悟志が俺に勉強を教わりに来た意図は、……勉強ができないっていうのは、『振り』だったのか?)
 いったい何のためにそんな嘘を。いや、悟志は意味もなく嘘をつくような奴ではない。どれが本当で、どれが違っているのか。どうして情報の齟齬が発生するのか。
 ――分からない。今のこの件に、悟志の考えていることに、悟志がしてくる『練習』に。交流を再開してからの悟志は分からないことだらけだ。……分かっていることなんて、あるのだろうか。子どもっぽいところは変わっていないと思っていたのに、同級生と話すときの口調は違ってた。付き合ってる相手だって男だっていう。知らなかったことばかり。
 不意に、悟志が貴幸から遠い存在のように思えた。掴んでいるはずだった糸が、少し先でぷっつりと切れていたような感覚。確かなものが見えない不安感。
 ぐらつきそうになりながら貴幸は足を踏み出した。屋上へ向かうために。それでも友人が来て昼食を食べ始めても、放課後になって部活をしているときでさえ、このことは頭を離れないのだった。
「三村、今日珍しく調子悪かったなー」
 気に掛かることがあるままでは練習にも集中できなかった。部活が終わって制服に着替え直しながら、バスケ部の友人がそう言って笑う。
「ちょっとな。ごめん」
「いいって、たまには。よく分かんないけど元気出せよ。……っと、じゃなー」
 服を着終え、鞄を肩に提げると友人は出ていった。他の部員たちも着替えが終わった者から帰っていく。
 貴幸は今も悟志のことを考えていた。
(……悟志、そういえば成績表も見せてくれたことないな)
 見せてと言ったときにも断られた。今思えば、あのとき強く言ってみれば良かったのかもしれない。
 胸に何かがつかえたような気持ちのままで貴幸も部室を出ていった。お疲れ、と部員たちに声を掛けて。
 体育館から出ると外の空気は乾いていた。ひりつくように冷たい風が頬を撫でる。空も、すっかり暗くなっていた。
「ん……?」
 ふと、視線の少し先に意外な人物がいるのが目に入る。貴幸は声を掛けてみることにした。
「ども」
「あっ! ……み、三村、くん」
 途端にその相手――ぼんやりと考え事をしていたらしい加奈子は、びくんと体を強ばらせる。
「悪い、驚かせた?」
 急に声を掛けて悪かっただろうか。貴幸が軽く謝ると、加奈子はぶんぶんと首を振る。
「そ、そんなことないよ」
「そっか。ならいいけど、友達に用事? 女バスの練習はもう随分前に終わって、女子はみんな帰ったぞ」
 確か加奈子は家庭科部だったはずである。体育館へ来る用事と言ったら、バスケ部所属の友人に会いに来たということぐらいしか思い浮かばない。
 しかし貴幸の言葉を聞くと、加奈子は再び首を振った。今度は小さく。
「……ううん、用があるのは友達にじゃなくて」
 躊躇いがちに、呟くように加奈子は口にした。
 それから鞄をギュッと握り直して視線を上げる。貴幸を見るその視線には、緊張と不安が混じっていた。
 震える声に決意が篭もる。
「三村くんに、気持ちを伝えたくて、来たの」

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