その後、険悪な空気になりながらも二人はトレーを持って葉弥翔が待つ部屋へと戻っていった。
道すがら力哉は苛立たしげに何度も声を掛けてきた。 「あのなあ、伊月さん。ハヤトのことが大事だっつーのも分かるがよ、さっきの態度、何だよありゃ。酷すぎるだろ」 「葉弥翔様を呼び捨てにしないでください」 「は? じゃあ、あんたみたいに『葉弥翔様』とでも呼べってのかよ!」 「そうです。何だ、分かっているのではないですか」 麗が半ば感心しつつ頷くと、力哉は表情を引きつらせる。 「じょ、冗談に決まってんだろ……。どこの世界に、んな、友達を様付けで呼ぶ奴がいるんだよ」 「私はあなたを葉弥翔様のご友人だなんて認めていませんから」 「あんたが認めてるかどうかなんて関係あるのかよ」 呆れと怒りが混じったように力哉が言ってきたが、麗はそれに答えず歩調を早めた。いちいち相手などしていられない。重要なのはこの男に対して丁寧に応対をすることではなく、葉弥翔のためにも彼を追い払うことなのだ。 葉弥翔は昔から大人しく心優しい少年だった。こんな『友人』が身の回りにいるのでは、この先どのような目に遭わされるか分かったものではない。 どうやって彼を追い返したものか。考えながらも麗は来賓室の扉を開き、力哉を先に中へ入れた。その際、思わず促すように会釈をしてしまったのはただの癖である。 「遅かったね」 戻ってくるまでに時間の掛かった二人のことを、葉弥翔は椅子に座りながら笑顔で迎えた。 「ちょっとな」 力哉は苦笑しながら適当にごまかしの言葉を口にし、菓子の乗ったトレーを机上に置くと、葉弥翔の隣にどかりと腰を下ろした。 葉弥翔がきょとんとして彼を見る。 「ちょっとって?」 「いや、ちょっと」 「ふーん……」 どうやら力哉には、先ほどの麗との会話を葉弥翔に告げるつもりはないらしい。 麗は静かに扉を閉じてから、葉弥翔と、そして嫌々ながら力哉の前にもティーカップを置いた。ポットを傾けて紅茶を注いでいく。微かな湯気が立ち、室内に仄かな甘い香りが漂った。 「紅茶でございます。どうぞ」 客人が来るということで、麗が直々に取り寄せておいた最高級の茶葉である。葉弥翔に少しでもおいしく飲んでもらうために淹れ方の研究も重ねたこともあって風味も豊かで、麗は紅茶の腕にいくらか覚えがあるのだった。 だと言うのに力哉は、一口すら飲まないうちから困惑顔になる。 「げ、紅茶か。苦手なんだよな、俺」 「なっ……!」 ――何という失礼な態度! 悔しさに麗は思わず唇を噛む。こんな男が、大事な葉弥翔様のご学友だなんて! 「ちょ、ちょっと力哉、せっかく麗が淹れてくれたんだから……」 さすがに葉弥翔も今の発言には慌て始めた。だが力哉は反省した風でもなくあっさりと言ってのける。 「あ、そっか。悪いな伊月さん。でもさ別に、誰が淹れたとかそういうんじゃなくて苦手なんだよ、紅茶」 「…………」 ひくひくと眉が勝手に動いていることを、麗ははっきりと感じた。葉弥翔は麗と力哉にうろたえたような目を順番に向けたあと、話題を変えるように笑顔を作った。 「り、力哉! あのさ、じゃあ、やっちゃおうよ宿題」 「そうだな。そろそろやるか。ところで――」 力哉は麗の苛立ちにも葉弥翔の狼狽にも気がついていないようだった。平然とした態度で答え、そして。 「伊月さんはいつ出てくんだ?」 無礼にも、指を麗に差して言ったのだった。葉弥翔が目を丸くする。 「えっ? 麗?」 「ああ、下の名前、麗さんっていうのか。そうだ。もう紅茶も淹れ終わったのに、突っ立ってて出てく気配がねえじゃねーか」 「それは……」 呆気に取られたように呟いたきり、葉弥翔は口を閉ざしてしまった。それからどう言えばいいのだか困ったように麗のことを見てくる。だが、呆然としているのは麗の方だって同じだった。 麗は、葉弥翔お付きの執事だ。教育係だって兼ねている。これから彼らが宿題をするのならば当然その傍に立っているし、口だって適宜出す。以前に葉弥翔と釣り合う身分のクラスメイトが来た際にもそうしていたし、誰もそのことに疑問なんて抱いていなかった。それなのに力哉は、麗がここにいることをさもおかしいとでもいう風に問いかけてきているのだった。 「出てなどいきません。葉弥翔様が勉強をされるのなら、私は近くにいなくてはなりませんから」 戸惑うように視線を巡らせる葉弥翔の代わりに、麗がきっぱりと答えた。 「へえ、そうなんだ? 分からないところ教えたりするためにいるわけ?」 力哉はもう、麗に敬語を使うつもりはさらさらないらしい。馬鹿にした口調でも喧嘩を売る口調でもないごく普通の話し方ではあるが、麗には彼のやることなすこと癇に障ってならなかった。 「ええ、そうです」 「だったらさ、二人揃って分からないことがあったときだけ呼ぶことにして、離れててもらってもいいんじゃねえの?」 「は――い?」 思いもかけなかったことを言われ、麗は目を大きく開いて呟いた。力哉がふうと息を吐く。 「ハヤトが一人で勉強してるときだったらともかく、二人いれば宿題ぐらい何とかなるだろ。ずっと伊月さんがいたんじゃ、ハヤトだって息が詰まるっしょ」 「な、何を言うのですか!」 反射的に麗は声を荒げていた。 「できるはずがないでしょう、そんなこと! それに、私がいると葉弥翔様の息が詰まる……!? よくもそんなことを言えたものですね!」 麗は華宮家に忠実に仕える執事である。それもずっと昔から葉弥翔と共に在るのだ。その麗に対して今の言葉は、本人にとっては、死ねと言われるよりも辛い暴言だった。 「えっ、あ、れ、麗、落ち着いて……」 葉弥翔は手に取ったカップを置いて、あたふたと慌てている。彼からしても今の力哉の言葉は意外だったのだろう、激昂した麗のことを宥めようとはしながらも、彼自身も目を白黒させていた。 麗が葉弥翔と出会ったのは自身が小学生の頃だったが、その当時、葉弥翔はまだ物心づいてすらいなかった。側に相手がいて当たり前だったのは、実のところ葉弥翔の方なのである。だからこそ力哉がこのように言えば彼こそが困惑する。 葉弥翔が品のよい顔立ちを困った風にさせているのを見て、麗はますます強い怒りを抱いた。 「力哉さん……! 葉弥翔様に妙なことを仰るのはやめてください! 何なのですかあなたは!」 「は? いや、俺はただ普通のことを――」 「普通!? わ、私と葉弥翔様が、普通でないと言うのですか!?」 「どう考えても普通じゃねえだろ」 絶句した。ほんの一言すらも口にできなくなった。 自分と葉弥翔との関係が、普通ではない。何ということを言うのか――! 思い余って麗は、両の手のひらで机をバンと叩いた。 「葉弥翔様!」 「はっ、はい!?」 眼光鋭く荒々しく怒鳴る麗に名を呼ばれ、葉弥翔はびくりと肩を震わせた。今まで麗がそのように自分を呼んだことなどなかったし、まさかこの状況で言葉が自分に飛んでくるとも思っていなかったのである。 「もはや我慢なりません! 葉弥翔様、追い返しましょう、この男を! 私にだけ出ていけと言うのならばともかく、葉弥翔様のことを普通でないと卑しむなど、許せることではありません!」 「ええっ!?」 「どうなのですか葉弥翔様、ご許可を! 葉弥翔様さえ『うん』と仰れば、私はこの男を排除することができるのです! さあ!」 「えっ、え、え、そんな、あの……!」 動揺のあまりに葉弥翔は意味のある言葉を口にすることすらできず、あのあの、その、とあたふたしながら繰り返すばかりである。 「どうしたのですか葉弥翔様! 仰ってください! この男が邪魔だと!」 「あ、あのー、伊月……さん」 「何ですっ!」 途中から、ぎこちない調子で力哉が口を挟んできた。ギッと鋭い目で伊月が彼を睨み付けると、力哉は、引きつった笑みを浮かべていた。 「その、そんな怖い顔してハヤトを怒鳴りつけなくったって」 「誰のせいだと思っているのですか!」 バン! 再び、机を叩く。紅茶を注いだグラスが揺れた。 平素なら麗が、よりにもよって華宮の家財を乱暴に扱う、まして叩くことなどあり得ない。けれど今は我を忘れて怒りを感じていた。 「俺はただ……、いや、何でもない。その、家庭の事情に口を出したことは悪かった。悪かったよ。だから落ち着けって」 「…………っ」 「あの、僕からも頼むよ、麗。せっかく力哉が来てくれたんだから」 そろそろと窺うような不安げな眼差しを向けつつ、葉弥翔も言う。 ああ、葉弥翔様、あなたはお優しすぎる。私はその優しさ故に、あなたがこの男に利用され、傷つくのではないかと心配なのです。 口には出さず心の中だけで麗は思った。 「……分かりました。私も言葉が過ぎたようです、失礼致しました」 可愛い葉弥翔にそのように言われれば、麗がそれ以上の文句を口にできるはずもない。 「どうか私のことはお気になさらず、お勉強をなさってください」 相変わらず力哉に対しては腹が立っていたけれど、穏和な葉弥翔の前でこれ以上彼を責めては、葉弥翔が心を痛めてしまうだろう。 殊勝に頭を下げつつ麗は思った。 葉弥翔にこの男を追い出すように進言したところで、絶対に彼は首を縦に振らない。そうした他人思いの性格なのだ。つまり攻めるならば力哉から。そう、葉弥翔に彼を拒否させるのではなく、彼の方からこの屋敷に来る気を無くさせるのだ。 今日はもう仕方がない。けれど、もしもまた今後敷居を跨ごうというのなら、そのときにこそ追い出してやる。 心に固く誓いながら麗は、その後ずっと、丁寧な態度で二人に接することに決めた。 |